みみのまばたき

2006-2013 箕面の音楽・文学好きの記録です。

クジラとこどもと、なにを歌おう。:二つの「音・作品」Bill Fontana 『Australian Sound Sculpture』とDavid Dunn 『Why Do Whales and Children Sing?』

nomrakenta2008-05-11



午前中に瀧道を歩くと、谷間の緑が色濃くて、気持ちがいい。谷の中程に道はあるので、谷側は上も下も緑で埋まっている。上の方は葉を繁らせた樹木の空間で、下の方は羊歯類の群生が一斉に葉を谷の上空に向けて手をかざすように向けている。そんな緑のグラデーションの中進んでいくと、緑色の海の中を泳いでいるような錯覚が起こる。晴れているのに、顔に水があたる。昨日の雨で木々の葉に溜まった水滴が、風に弾き飛ばされてパラパラ降ってくるのだった。

インターネットで、録音用のコンタクトマイクを探す。といっても、こういう機材のことに疎いので、どういうものがいいのかよくわからない。「コンタクトマイク」という言葉にしても、どこかの雑誌でケージが「カートリッジ・ミュージック」などで使用した記載があった記憶があるので探しているだけなので、「コンタクト」でいいのか、これも正確ではない。
小さな音の振動をもっと増幅できるようなものを、といった漠然とした印象しかないので、自分のニーズに合ったものがあるのかもよくわかっていないのだけれど。
マイク専門の製造会社の料金表などをみると、昆虫のたてるような微音を録れるものなど、ひとつが20万くらいするものがある。素人では使い切れないだろうし、とてもじゃないけどこれは手を出せない。「コンタクトマイク」であたってみると、ほとんどは楽器のチューニング用のもので、固定用のクリップが付いたものが検索されてくる。もうすこし探ってみると、「コンクリート・マイク」というのが出てくるが、これは壁越しの音を聴くためのもののようで「浮気調査」用とか書いてある。こちらとしては、興信所に勤めているわけでもないので、これも違う。ようやく、ノイズミュージシャン用(!)のコンタクトマイクというので比較的安価なものを発見。しかしこれも多分振動する楽器に固定して音を拾うためのもののようで、植物の音を拾うのに適しているのかといえば、たぶん難ありなんだろうけれど、まあ試しにやってみようと、注文。

さて、前置きが長くなってしまいました。ICレコーダーを購入したから、というわけでもないのだけれど、この週末は、楽器演奏による音楽以外の「音作品」を聴いてみています。

Bill Fontana『Australian Sound Sculpture』は、「音響彫刻家」ビル・フォンタナの作品。
この人は活動歴が長い筈(僕が学生の頃に京都と海外の都市をリアルタイムの環境音でつなぐ「作品」をつくっていたと記憶。ただフォンタナのWEBをみていてもそれがACOUSTICAL VIEWS OF KYOTO (1990) だったのか、それともSoundbridge Cologne - Kyoto, 1993だったのか、わからない )。例えば、ドイツの廃駅に、リアルタイムで他の駅の雑踏の音を「再配置」することによる異化作用を通じて、新しい音環境をインスタレーションとして提示する。そういった手法が「音響彫刻」ということらしい。特定の音が持っているコンテクストを、異なる環境にジャクスタポーズする、しかもリアルタイムで、という発想は、いかにも現代美術的で、音を視覚素材と同等なレベルで扱っているわけだ。
でも音源をCDで聴くのは初めて。CDで聴くという行為は、「音響彫刻」の臨場感をまったく再現するには程遠い事くらいはわかっていたのだけれど、ちょっとドキドキしながらオーディオにセットして、どんな音が流れてくるのかと身構えていた。
まず押さえておかなくてはならないのは、ビル・フォンタナは「アーティスト」だという当たり前のことなのであった。いわゆる「フィールド・レコーディング」ものとはまったく異なるわけで、素材を無加工なままにしておく、などとはフォンタナは言っていない(のではないかと思うんですけど)。
シドニーの音像を捉えた1トラック目など、鐘の鳴るタイミングと周囲のざわつき、それからブイが海面をゆれるような音の配置具合は、テクノの変種といっても通りそうな程、音楽的趣味を裏切らないものにもなっていると思う。
少なくとも本作の音源を聴いた限りでは、例えば、リュック・フェラーリが海岸の町の日の出からの数数間の音を入念にミックスして仕上げた1968年の『ほとんど何もない第一番―あるいは海岸の夜明け』に近い感触だということがある。そして『ほとんど何もない』は、あたかもその日常が音として繰り広げられるかのような「音シネマ」というべきもので、次に引用するインタビューにもあるように、音像から受け取れる予想に反して、作曲家の無意図・無介入とはおそらく正反対の位置にある。

フェラーリ 私のミニマリズムは、音楽の世界に音楽データを最小限導入すること、すなわち、音の高さとか強弱などの意味で、古典的な音響を否定することなのです。
ドラランド そして、最小限の作曲家の介入ですね。
フェラーリ いやいや、作曲行為は同じくらいあるのですよ。でもそれは隠されているのです。もしその介入が聞こえてしまったら、それは現実をデフォルメしてしまったことになります。ちょうど、描く行為の背後に写真の介入が隠されているハイパーリアリズムの絵のようなものです。『ほとんど何もない』の場合も同様です。これは作曲された作品です、作曲家は絶えず介入しているのです。

――ジャクリーヌ・コー著・椎名亮輔訳『リュック・フェラーリと ほとんど何もない』p.67

リュック・フェラーリとほとんど何もない―インタヴュー&リュック・フェラーリのテクストと想像上の自伝

リュック・フェラーリとほとんど何もない―インタヴュー&リュック・フェラーリのテクストと想像上の自伝

フォンタナの「音響彫刻」もフェラーリの『ほとんど何もない』も、背後で入念に作品化されているからといって、それが作品の質を貶めるわけでは、もちろんない。むしろ、表面上音楽的な展開を全くもたないからといって、アナーキーな聴取と勘違いしてしまう安易さが、それが作家性の軽視に至ってしまうことが、実は一番避けられるべきことなのだ、と思う。
まあ、いささか倒錯した聴き方なのかもしれませんが。

ビル・フォンタナで、見つけた動画。ギャラリー内に設置されたオブジェに、外に設置されたマイクロフォンからとった音が流れこみ、その振動・反響音がほとんどの空っぽの増幅されて空っぽの空間を満たしています。

Fontana;Soundbridge

Fontana;Soundbridge


もう一つ、ケージ的というよりも、より環境的なアプローチで音に取り込んできたDavid Dunnによる魅力的なタイトルのCD+小冊子『Why Do Whales and Children Sing?』(『クジラとこどもはどうして歌うの?』・・・本当にどうしてだろう?あのAnnea Lockwoodが、序文を書いている)は、例えば、ニューメキシコの鳥の鳴き声と雷雨、グレートバリアーリーフの水中の音、マウイのザトウクジラの「歌」、アラスカの水中でのセイウチの声、ジンバブエ夜の音、蛙や虫、鳥の鳴き声、コスタリカのホエザル、そしてメキシコの砂漠の狼とコヨーテの声などなど、デヴィッド・ダンが世界中でマイクを向けてきたものが、世界の40の断片(どれも2分以内)が集積して濃密で豊穣な世界をつくっている。
こちらは、もちろん各トラックへの「作品性」は捨てられていて、集積として各々の断片に耳を傾けさせることに集中していて、「フィールド・レコーディング」といって問題ないのはこちらだ(なんだか言い回しがおかしくなってきている)。

Why Do Whales and Children Sing

Why Do Whales and Children Sing

普段は視覚に支配されている感覚から聴覚を改めて切り取ってみること。
冊子に刷られたコメントでおもしろいのは、前半に収められた自然界の音の繊細な表情に対して、ほぼ終盤に集められた人間界の音―たとえば、ゲームセンターの音まで録ってきて「非人間圏の音が、これほど繊細なのに、人間圏の音がこれほど無秩序なのは何故だ」とぼやいてみせたり、自転車レースの音については、人間のテクノロジーの出す音の中で、自転車の車輪の音がフラジャイルで格別だ、とのろけてみたりする、ある意味なシニカルな視点。それでも、最後の二つのトラック―ジンバブエの村の市場の音と、子供たちの歌声には、録音と編集に徹したデヴィッド・ダンの、人の営みへの優しい眼差しが聴きとれる、と書いたら穿ちすぎになるのだろうか。
デヴィッド・ダンの音への態度は、ある意味ケージよりもラディカルだといえそうで、「彫刻」として音をオブジェ化してしまうのではなくて、音が鳴る場所―「環境」へと自ら飛び込んでいく。そこでは「作品」というアイデアはすでに(/否、元々?)固定化できるものである筈もなく、絶えず変成しつつある自己と環境という大きな織物の中での一つの感性なのかも。
1999年のインタビューでデヴィッド・ダンは、環境における精神が音響的に自己を表現できると思うかという質問に(要は、「音」を環境から区切ることで「音楽」とせず、環境の中に置いたままでいて、それが「表現」といえるのか?という質問に)、まさしくできるのだと即答し、次のように答えている。

そしてその点こそ、私の仕事が、自然音を扱うこと(それが鳥の鳴き声であれなんであれ)に関心を持った実験音楽の多くと袂を分かっているところなのだと思います。
ケージを通して実験的な作曲の領野で続いていく伝統、そして音が作曲家のための潜在的なリソースであるというアイデア。その位置づけ自体、私は美学的には擁護できると思うのですが、ケージの、そして彼の後に続いた多くの人々の作品においては、各々の音をそれら自身の環境から「脱文脈化」する傾向がありました。
私の関心は、音がある環境そのものの中へ帰ってゆき、真摯にインタラクティブな方法で、これらの音が、単に人間の音楽家のためだけのマテリアルなのではないということを明らかにする、そんなシステムを確立するよう試みにあり、音を「再文脈化」することにありました。
これらの音は、明確に意識化されたコミュニケーション・システムの証拠なのです。これらは、生命という巨大な織物の一部であるという完全性があるのです。それらはもしかしたら、何が音楽なのかという概念や音楽素材の拡張という意味では「有用」なのかもしれません。にもかかわらず、私には、そこに検討されるべき、より深い何かがあるように思えてならないのです。
――インタビュー「Music, Language and Environment (1999)」より

「全てが音楽だ」と、4分33秒を僕等に開け放ったジョン・ケージが、その実、作品の音素材、テクスチャーに細心の注意を払ったうえで、可変的な部分を設けてきたことは、別に自己矛盾呼ばわりされることではないと、僕は思ってきたのだけれど、デヴィッド・ダンの態度が、音との関わりをまっすぐに捉えてきたのだということくらいは分かる。


「音楽」を聴くのも「音」を聴くのも、実のところ、然程違いはないのかもしれない。ある種のマナーが必要なのはどちらも同じことなのであって。自由な「聴取」の在り方に、アナーキーな憧れを持ちはするけれど、そういう僕の耳の来し方は、好き好んで聴いてきた音楽の方向にきっちりと整備されてしまっているのも、また確かなこと。それに、こんなことを書いている自分が一番軽視しているのは、音楽という文化を立ち上げる「技術」(演奏の上でも、文化経済的な文脈の上でも)だということも、気付いていないわけでない。
それでも、耳を傾けることに自由な何かがある、そう思ってみたい。
なんだか、最後は有耶無耶になってしまった。

Music Language & Environment

Music Language & Environment

引用したインタビューは、このCDが出た頃のものみたいです(間違ってるかも)。
Angels & Insects

Angels & Insects

『天使たちと虫たち』。霊媒が語る(!)ルネサンス期の神秘思想家ジョン・ディーの言葉をコンピュータでプロセッシング、変調したというオドロオドロシイ作品『Tabula Angelorum Bonorum 49』と、北アメリカとアフリカの沼に棲む小さな水棲昆虫の音を採録&コラージュした『Chaos & the Emergent Mind of the Pond』(こちらは和みます)の2曲を収録。