みみのまばたき

2006-2013 箕面の音楽・文学好きの記録です。

桜と迷宮から飛びたてないイカロスとやさしいコントラバスと箏のデュオ:ミヒャエル・エンデ『鏡のなかの鏡』2、水野俊介+稲葉美和『あおのむこう』

画像がアップできないストレスに耐えつつ、気を取り直して、書けることを。
篤姫』を観てから夕食後に家族と夜桜見物にふらりと出た。
近所の桜坂は、毎年春には一年という時間から吹きこぼれてくるような表情を見せてくれるのですけれど、年々花々枝枝の隙間が気になるようになってきている。桜坂をいったん上まであがってから一番下の公団まで下り(公団の桜のほうが勢いがある)また上まで登っていくと、空気が桜餅の香りである。



先日から就寝前の気の向いた時に読んでいるエンデの短編集

鏡のなかの鏡―迷宮 (岩波現代文庫)

鏡のなかの鏡―迷宮 (岩波現代文庫)

2つめの短編『息子は父親でもある師匠(マイスター)のすぐれた指導のもとで翼を夢みた。』を読んだのは昨夜。ギリシャ神話のイカロスの話であろうとは、誰もがタイトルと最初の書き出しで想像するだろう。「父親」ダイダロスなしで飛行を夢見る息子の話なのであれば、それはイカロス的だとはいえないと思う。
してみると、イカロス神話の原型とは不思議なものだ。「翼」もイカロス同定には決定的な要素でありながら、それと同程度に「父の指導のもと」飛行の練習をする息子という構図も、相当重要な神話素でもあったのだ。だとしたら、太陽と蠟という物理的因果すら、じつはあまり重要ではなかったということだ。

しかし、エンデはつづく一文で、イカロス的な夢想から読者を引き剥がし、自分の迷宮的な論理に放り込む。「夢見た」というのは比喩ではないのだ。その「翼」とは、物理的に蠟で固めたものではなく、夢の中で意識を集中し羽根の一本一本にいたるまで「想像」して作り出すもののようなのである。ここで幻想小説である、というエンデの職人的な自明さがこの短編に複雑な陰影を与えていく。

迷宮の都市(まち)では、家並みや街路の位置や配置がたえず変化していた。だから、ひとと会う約束をすることは不可能なのだ。どのような出会いも―これは言葉の解釈によるのだが―「偶然」または「運命」に左右されていた。
p.12

またしても迷宮。というかこの短編集は副題にも「迷宮」とあるので、エンデ流に迷宮のバリエーションを様々な発声で試みたものなのだろう。エンデ版イカロスもまた、その飛翔の大望を果たすことはできないけれど、それは「迷宮」的な論理に従ってのことだ。
それにしてもタイトルの『鏡のなかの鏡』というのが気になる。「鏡に映った鏡」なのか、「もっとも鏡的な鏡」なのか(「男のなかの男」みたいな)。鏡だけに、どちらでも幻想性は担保できるように思えるのですが。ドイツ語の原題は「Der Spiegel Im Spiegel」なので、やっぱり「鏡に映った鏡」の迷宮構造の意だろうとは思う。



最近、聴いた『Himalayan Break』というCD(ギターとコントラバスによるヒーリング(?)ミュージック)がとても良かったので、そこでコントラバスを弾いていた水野俊介という人を調べてみたら、友部正人の名作ライブboat 4でバックを努めたスカイ・ドッグ・ブルースバンドの人だった様子。

あおのむこう

あおのむこう

これは数枚でているコラボ作の一つで、コントラバスと箏のデュオが聴ける。難解な即興などは一切ない(それも好きですけどね)。3曲ごとに「夏・秋・冬・春」という四季に分けられた構成(なぜ夏から始まるのかはわからない)言葉にはならないだれでも思い当たりそうな感情を、二つの楽器が綺麗な音色でなぞってくれる。普段よく聴く即興系だと箏はそれこそ武満徹が「ノーヴェンバー・ステップス」でやったような「垂直」にたちあがるような音、アタックと気配、音の立ち現れの厳しい表情に最大の焦点を当てたような演奏になりがちだし、コントラバスは重低音の発生装置としてもっぱら機能し(繰りかえすますが、それも好き)、当然メロディー楽器としての部分がわからなくなりがちだけども、こういうものを聴くとあらためて、たった二つの楽器によってなぞりとられる繊細な表情に、桜のせいだけでなく、顔が緩むのを感じます。