みみのまばたき

2006-2013 箕面の音楽・文学好きの記録です。

今週買ったCDを聴いています。

職責かわって最初の年度末。新人さんの実践研修指導など、てんやわんや。どうも本来のコアの業務に手がついていないので、4月からの不安がつのる。同僚からもフラフラすんなと叱咤の声が。しかし、家には絶対仕事は持ち帰らないのだ。
とういうわけで、今週購入したCDを聴いています。

Dreamers

Dreamers

ジョン・ゾーンなわけです。ジャケが昔の玖保キリコさんが描いた『Cobra』を彷彿させる・・・というわけのわからない浅い動機で購入。統制された壮絶インプロ大会が襲い掛かってくるのかと(ちょっと期待もしつつ)耳をショック対応にして待ち受けていると、妙に心地よい懐かしげなメロディー。ふんわりとしたアレンジ。なんだ?・・・おい、聴きやすいではないですか!
それでもギターは妖しくゆらゆらしているのでクレジットみると、やっぱりマーク・リボー(ビル・フリゼールでもおかしくはない)。
しかし、なにしろジョン・ゾーンなのです。
どうせ油断させておいて、いきなりフリーキーでハードコアでElectric Masadaなスラッシュメタルに切り替わるんだよな、わかってんだよ!とまた(ちょっと期待しつつ)聴き進みますが、一向にその気配なし。映画音楽やワールドミュージック、ジャズスタンダード、ジャムバンドなど正体出自が掴みきれないスタイルが混淆して、基調は「ラウンジぃ」。上記のわたしのような最近のジョン・ゾーンの傾向に無知な偏ったバイアスで接すると、音楽的な懐の広さ深さに初聴で遭遇できなくなる可能性がありますので、ご注意ください。
メンバーは、
ギター:Marc Ribot、キーボード:Jamie Saft、バイブス:Kenny Wollesen、ベース:Trevor Dunn、ドラムス:Joey Baron、パーカッション:Cyro Baptista、アルトサックス:John Zorn
という、書いてて何の冗談なのかと思ってしまうほどに、なにをやっても文句を言えないであろうTzadik最強のメンツによる、正体不明の「ワールド・ポップス」味で変態ぶり(4曲目などに顕著かと)を絶妙にオブラート。偽装があまりに徹底的なのでどっちが本性か判別できないほどになってしまったかのような印象も。


Invisible Baby

Invisible Baby

The Marco Benevento, Joe Russo Duo というのが、今凄いらしいのですが・・・このアルバム試聴で始めて知りました。そのデュオのピアニストMarco Beneventoによるソロ。
トム・ヨークがインストをやったらこんな感じでは、みたいな店のポップに興味を惹かれて手に取ったのですが、別にそんな文句がなくとも、これはおもしろい。ピアニストのソロといってもピアノ主体の作り方ではない。たしかにレディオヘッドを通過してジャズを聴こうとする人が聴いても、刺激を受けることはできそうなトータルなバランスの中でピアノが鳴っている。壊れたおもちゃのような曲でも歯切れのよいビートが奔っていて、アルバム全体を通じて、堅苦しいものにも、なってはいない。
いまさらなことを書いてもいいとすると、この十年くらいで、ロックのリスナーもジャズのリスナーも垣根がなくなって、本当に優れた演奏を聴ける領域が生まれたと思いますが、これはそんな領域のど真ん中に投下された、ちょっとヒネたところもあっておもしろいアルバムになるかと。
個人的な思いだけでいうと、たとえばポスト・パンク時代の「Rip,Rig&Panic」(ネナ・チェリー在籍)のアルバムには、マーク・スプリンガーという、およそ非ロック的なピアニストが、ひとりサティを経由していそうな無駄のないリリシズムで、全体的にはフリー・ファンクといえそうな不定形な演奏の中で、音楽におもしろい注を加えていたと思いますが、それに近い印象があったりする。ピアニストのアルバムでそんな印象が思い出されるというのも、おもしろい。
偏った趣味の人だけにアピールするものではなくて、かなり広範囲におもしろいセンスが伝わりそう。ということは、それだけ技術があって、聴きやすさを担保してくれているわけですが。
ボーナストラックに一曲ライブが収録。演奏終了後のオーディエンスの熱い反応がテンションの高さを示していそう。これはライブ観たいなあ(フジロック、出演したそうですが)。

『崩壊ホームレス』と並行して読んでいた本。

女は何を欲望するか? (角川oneテーマ21)

女は何を欲望するか? (角川oneテーマ21)

フェミニストフェルマンの「私は私の物語を書くことができない(私は私自身の自伝を所有していないからだ)。だが、私は「他者」のうちで/「他者」を経由してならそれを読むことができる」という言葉。ここでいう「他者」とは「かつての」フェミニスト文脈からいえば(今はどうか、それは知らない)つまり男性のことであって、「読み/書く」言語はすべからず「男性的」なものであるから、女性は抵抗しつつ「読み/書く」という行為を通じて独自の言語主体とならなければならないという論旨になっていたそうなのですが、この言葉についての著者の言葉。

私はフェルマンのこの言葉に全幅の同意を与えることができる。私たちが私たちの自伝を語るときのあり方を彼女が正確に語っているからである。唯一の問題は、まさに彼女の洞見がすべての人間について妥当するということである。それが女性についてのみ起こる特殊な事例であり、男性である書き手には決して起こらないというこの論証にフェルマンは一瞬も興味を示さない。私にはその理由がわからない。
p.136