みみのまばたき

2006-2013 箕面の音楽・文学好きの記録です。

A・マスターズ『崩壊ホームレス』読みかけ中になぜかJ・ジュネ『泥棒日記』を思い出す。

nomrakenta2008-03-17


ホームレス中学生よりもわたしは『崩壊ホームレス』(遅すぎるか、またしても)。やっと半分読んだところ。
著者で物語の語り手でもあるアレクサンダーは、主人公である「ケイオティック」ホームレス、スチュアートの破壊的なライフスタイル(というか「スタイル」というスタイルを全てゴミ箱に放り込むような生き方)に呆れ果て、そのトリックスターな言動に戸惑いながらも次第に信頼関係ができていくのが読んでいていい感じである。
といっても、なま暖かい友情が芽生える場面がまじめに描写されているわけではなくて、子供っぽい共犯者めいた友情といった方が当たっているのかもしれない(スチュアートの病室にジンを持ち込み、スチュアートは水差しの水を捨ててジンを入れてコソコソ呑む)ものだけれど、進行中の解放キャンペーンだとかスチュアートの筋ジストロフィーの悪化やすさまじい過去の回想を折りたたみながら、語り手は、基本的にほとんど容赦ない皮肉な調子でスチュアートの人生の断片を終局に向かってコラージュしていく。

 スチュアートの罪は、浮気の疑い、すばやい降参、混乱した子供時代、自殺未遂、自己嫌悪などの理由では却下されなかった。警察がスチュアートの家に到着した時、彼はとんでもないことをやらかしたのだ。「俺はリトル・アンを腕に抱いてた。そして俺はその時まだナイフを持っていた。そして窓のそばで立って言った。『よし、もしクソ誰かが家に入ったら、俺はこいつをぶっ殺す』」
〜中略〜
 スチュアートは自分の息子を殺すと脅迫した。
 これが彼を「スケジュール1の犯罪者」にした。そして囚人たちの間では、言葉は、自由な人間の与えた意味とは違ってくる。
 グレンドン刑務所からホワイトモアへ。それはあることを証明していた。
 児童犯罪嫌いのスチュアートは、児童犯罪者だった。
p.147

崩壊ホームレスある崖っぷちの人生

崩壊ホームレスある崖っぷちの人生

とくに救いようのないところを選んで引用しているのではなく、こんな風なエピソードがそれこそ金太郎飴状態で繋がっていく。が、その結果として著者は、どうにも憎めない主人公の顔を読者にイメージさせることに成功している。
そう思えた時点で、自分の中で、本書のタイトルは、邦題の『崩壊ホームレス』から、原題に近い『スチュアート:ある逆回転の人生』に修正されました。

全然関係ないことはわかっているのだけれど、本作を読んでいるうちに中学生の頃に恐々読んだジャン・ジュネ泥棒日記をおもいだした。

泥棒日記 (新潮文庫)

泥棒日記 (新潮文庫)

しかし、今も昔もこの挿画だけは苦手なんであるが。
この壮絶なテクストの集積を果たして全部読み通したかどうかも、実はもう覚えていない。
焼けて変色したページをパラパラめくって目に付いた段落から読み始めてみると、やはり男娼・こそ泥・強盗・チンピラどもが活き活きと蠢きだすのであり、どいつも自分たちの「掟」を美学に転じて哲学し、そのぶれないことこそがジュネの中で神聖なものとして、ありえないほど文学的な対象として「高み」まで押し上げられて圧縮されている。
本来違和感である筈のものが、ジュネの饒舌さでいつの間にかたった一つの倫理みたいに感じられる、そんな瞬間がどんなに素地のない読者にも、一回はやってくる(もちろん、20ページくらいで放り出さなければ、だけども)。
価値の転倒などという生温い(順序立てた?)ものじゃなく、端から転倒している意識もない価値観の真ん中に投下されて右往左往しなくてはならないのだから、いまさら踏み外す度胸もその気もない人間がこの危険きわまりない文学を読むには、こういう距離を置ける形の拾い読みだけが、方法としては正解か、とも思う。
中学生の自分がかなり無理をして読んでいるなあという痕跡が残っていて、今それに目に留めてみると、微笑ましいというより、危ないなあコイツと思ってしまう。

 わたしがそれに対立しているところの世間によって境界づけられ、それによって截然と輪郭づけられているわたしは、わたしを傷つけ、わたしに形を与えている線の角度が鋭ければ鋭いほど、わたしを切り取る線が無慈悲であればあるほど、わたしはより美しく、より煌めくであろう。
 人はすべて行為をその成就にまで続行しなければならない。その出発点がなんであろうとも、終極はすべて美しいはずだ。行為が醜いのは、それがまだ成就されていないからなのだ。

ジェン・ジュネ『泥棒日記』p.311

ここが要するにアウトサイダーな決めゼリフだ!と思ったのだろう。この一文に、その当時愛用していた紫色の蛍光ペンでマーキングがしてあって、とうに発色の落ちたその痕跡が水彩絵の具で一刷毛ひいたみたいになってなかなか味があるにしても、今読めば、『泥棒日記』のあらゆる些細な書き込みは、それがたとえ怪しげな辻便所であってもジュネの世界を増幅する装置になっている。決めゼリフといえば、ワセリンも辻便所も盗品もすべて同等に資格を持っている。

泥棒日記』は397ページあって、その終わり方はとても「物語」の終わりとは思えない、思索の中断(次作への予言)めいたものだったが、マーキングしてあるのはこの一文だけである。今読むと、20世紀のアヴァンギャルド芸術の精神を擁護しまくっているようにも思えるこの文章だけが、パンク・ロックが好きなだけだった中学生の頭で納得できるものだったらしい。
魔物のような『泥棒日記』に比べると、『崩壊ホームレス』は、語り手のアレクサンダーが、いちおう「こちらがわ」の人間ということで、バランスをとる努力をする必要もあまりなく、古典的な感情移入が可能なだけかなり清清しい風が吹いている。・・・のか?ま、安心して読めるのは断然こちらですよ、ということにしておきます。


Live: Vanessa Paradis

Live: Vanessa Paradis

久しぶりに聴いてみたら、最後の「Just as long as you are there」の盛り上げかたが懐かしく、ちょっとグッときた。それはそうと、『ヴァネッサ・パラディスVSエイリアン』はとてもいい映画だった(主人公の名前がバタイユ)。