デフレ世代のハビトゥス、が与えられたとせよ:水無田気流『黒山もこもこ、抜けたら荒野』を読む
『黒山もこもこ、抜けたら荒野』読み了わる。
年代がかなりストライクにつき、おもしろい。
黒山もこもこ、抜けたら荒野 デフレ世代の憂鬱と希望 (光文社新書)
- 作者: 水無田気流
- 出版社/メーカー: 光文社
- 発売日: 2008/01/17
- メディア: 新書
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戦後、経済の成長によってバックアップされることのなかった世代というのは、たしかに高度成長末期生まれの我々から始まっているから、いってみれば「負」によって有徴された世代からの発話というのは概してかたちを取りにくいものだろう、とは容易に想像できるから、これはいってみれば自然な成り行きなのかもしれない。そもそも「世代」というものに対して、ほとんど「お得感」を持ってこなかったのだし。
そういうわけで、本書のいう「デフレ世代」からの、「デフレ世代」としての主体を持った発話、などというものは、おそらく今後もかたちをなしていかないだろうと予測できる。それがなぜか、というのがこの新書でなんとなくつかめるような気がする。
まず、デフレ世代を特徴付けるものがあるとしたら、タイトル通り、日本が80〜90年代に経験することになった大きな落差である、としている。通常それは「負」の有徴として把握されるわけですが、本書の肝はそこにはなく、「落差の体験」を安易に時代からの被弾とするのではなくて、徹底して著者自らの体験として語ることで、その困難さを分析していく行程が本書の肝であり、一見「脱力ローファイぎみ」に読めながら、むしろ期待感を内包した子供っぽいロマンティシズムでもある「自己卑下」のスタンスから最も遠いところにある強さ・明るさが持ち味、だと思う。
なので、本書につけられた帯の惹句
不安、絶望、諦念
「体感格差」の正体
というのは、自分の読後感とはちょっとそぐわない思いも。たしかに「それについて」ではあるけど肝ではない。
もし、ここから印象付けられるような単純なルサンチマンや危機感を煽るだけの方法論しか持っていなかったのなら、そのこえは、「ロストジェネレーション」だからなんだ、という問いに答えたことには決してならずに、「内海」のなかに沈むこみかたちを失ってしまうだろう。
タイトルの「黒山もこもこ」とは、デフレ世代の幼少期の記憶に焼きついた高度成長末期の大衆社会の光景で、(強調は引用者)
人生における最古の「壮絶なる人混み」の思い出は、幼稚園児のときに見に行った上野動物園の初代パンダ、ランランとカンカンであった。人混みの中、長々と並んでようやく目にしたカンカンは、ごろりと横になって昼寝中、ランランは座った姿勢で優雅に昼寝中、二頭ともぴくりとも動かない。
(引用者中略)
悲しいことに、三〇年たった今も、パンダのことを思い出すたびに、檻の前に人の頭が黒山のようにもこもこしていた画が消えないのである。
そう、私の「かけがえのない家族の思い出」は、つねにこの「黒山もこもこ」に縁取られている。パンダもコアラも、開園直後のディズニーランドも、つくば博も同様だった。
--水無田気流『黒山もこもこ、抜けたら荒野』p.22-23
個人的に、最近「パンダ」というと、藤井貞和の詩「パンダ来るな」が脳内リフレインを起こすのですが・・・(もちろん余談)。
そして「荒野」は言うまでも無く、デフレ世代が社会に出た時代、就職氷河期といわれた以降、現在まで続く社会環境のことを指す。ここでデフレ世代のある心性を著者は「普通へのノスタルジア」だと表現する。
ちなみに、人が他人、ないしは過去に自分が置かれていた状況と比較して、今の自分をより不幸であると感じることを、社会学では「相対的剥奪」という。
この「相対的剥奪」の感覚は、客観的指標というよりはむしろ主観的な感覚に依拠している。たとえ同じような結果に終わっても、それに多くのコストをかけた(と思っている)人は、当然それだけ多く報いられるべきであるとの考えが生じ、たいしてコストをかけなかった(と思っている)人よりも、いっそう不満が高まる傾向がある。
その意味で、熾烈な受験や就職試験競争をくぐり抜けながらも、それに見合う「報酬」が得られなかったわれわれ「デフレ世代」にとって、この「相対的剥奪」の感覚は、他の世代より大きいように思う。第一、子どものころの「普通の生活・幸福」が、私たちにはとてつもなく遠く感じられる。客観的にも、主観的にも遠いのである。
--水無田気流『黒山もこもこ、抜けたら荒野』p.99
ちなみに、人が自分の価値や態度を決定する際に影響を及ぼす集団を、社会学や社会心理学では「準拠集団」という。
これは、通常家族や友達など、その人が現在所属している集団であるが、必ずしもそれだけには限らない。影響が大きい場合は、非所属集団であることもあり得るのである。
メディアの発達した今日の社会において、日常的な悲劇の一つに「決して自分の手の届かない相手を準拠集団に選んでしまう」というものがあると思う。--水無田気流『黒山もこもこ、抜けたら荒野』p.119
このあたり、特に異論があるはずもありません。「荒野」も悪くない、と言ってしまえるのであれば、本書を読む必要はなく、また読んだからといって、下記のような著者の結論以上の感慨は望めないかもしれないのだが。
だが、あえて言えば、それが私(たち)の人生である。
諦念でもなく、ましてややけくそなどでもなく、そこから開始せねばならない。
一点だけ私たちの世代の長所をあげるとすれば、それは戦後日本の経済的転換(というか私たちにとっては敗戦)ともいうべきこの事態を、個人史として身に刻み、かつその前後の時代や世代を相対的にながめられるということに集約される。
人は、ただ一つの世代観や生活観だけに埋め込まれ安住しているとき、その全貌や問題点がなかなか見えてこないものである。その点、変化の激しい状況下、個人史の痛みとして社会をながめる者も数が相対的に多いのが、私たちの特徴ともいえる。
--水無田気流『黒山もこもこ、抜けたら荒野』p.132
著者は話題が趣味に走って脱線してしまったと書いているが、本人に最もひきつけて書かれたであろう「一九八〇年代-文科系女のサブカルチュラル・ターン」の章がおもしろい。腐女子に書かれたこの一節、「萌え」が男性消費者に留まらない心性であると指摘している。
極論すれば、「少年ジャンプ」だって腐女子には「萌え」アイテムであるし、さらに「萌え」の対象はアニメやゲームのキャラやアイドルに限らない。
たとえば、前述した私の「萌える消費者」の定義には、ヨン様のDVDを買い漁ったりハンカチ王子を追っかける主婦層も入るのである。いや、スポーツ中継や国会の質疑応答すらも、腐女子からすれば萌えストーリーの「ネタ」の場であるという・・・・・・。断言するが、たとえば福田首相と小沢民主党代表が密室会議、などというと、その「密室」という言葉にヒットする層は確実にいるはずである。
--水無田気流『黒山もこもこ、抜けたら荒野』p.167
・・・最後の断言には正直、解剖台上でミシンとコウモリ傘を見るようなショックを覚えるが、そうなんだろうか・・・。
ところどころのフレージングの切れやおかしみも現代詩の作者ならでは、なのか(詩は未読なので)。
当たり前のことだが、ひとつの世代観というものの輪郭を他者に対して開いてゆこうとするのなら自己憐憫に収斂せず済ませ得る力を自分で維持することが最低限のマナーなのだ。
多分、僕は、自分の世代というものをもし語られるならば、こういう「こえ」によってでしか許容できなかったのだと思う。