みみのまばたき

2006-2013 箕面の音楽・文学好きの記録です。

初和らい:茂山千五郎家の狂言をみる

nomrakenta2008-01-12


川西のホールで『大蔵流茂山狂言』の新春公演を観てきました。
番組は、脇狂言として『福の神』、それから『無布施経(ふせないきょう)』、『棒縛(ぼうしばり)』。
実は狂言を生で観るのははじめてでした。
茂山千作さんの演じる福の神の笑い止め(あらゆる「制度」をすり抜けていく風のような「笑い」)だけに留まらず、茂山一門の方々の声の通りの良さにも初めて観るものとしてもちろん驚きましたが、台詞の分かり易さ、それから限られた舞台の上をすり足で移動しつつ「折りたたみ」、言葉で情景を説明・拡充しながら、小さな仕草が弾みになって場面を切り替えていく「型」が、知的にというのではなくて特に感覚的なものとして存外に心地よい、そして「笑い」はというと、徹底的に反権威的(というか無権威的)で多分に批評的なドライな味わいがあることに気付きました。
「型」の心地よさを、特に感じたのは、笑えるお話としては多分最も筋の無い方になる「福の神」で、自分が観る最初の生狂言だったからかもしれませんが、参詣人がまず最初に「一日一日と送るほどに、当年も早や良い年の暮れになってござる。毎年福の神のお前で年を取りまする。また当年も参ろうとぞんずる・・・」と名乗りをあげて、もう一人の参詣人の家にいって連れ出すところ、それだけの空間と時間の圧縮(省略?)だけでも、ずいぶん洗練されたものだなあと思ってしまいました。
それと豆を撒く時、「福は内、福は内」といって、「鬼は外」が出てこない。ひたすら福が欲しいだけの「登場人物」の表現なのか、それとも中世では「鬼は外」がなかったのか、しかも劇中は元旦であって節分でないわけだし「豆撒き」というもの自体が気になりました。
笑いのほうでは、『無布施経(ふせないきょう)』は檀家に経をあげにいって布施をもらえない貧乏なお坊さまの四苦八苦の話で、「布施」をいかにそれと言わずにまぎれこませて檀家の頭に喚起するかという話術ですとか、まるで落語のようなおもしろさでした。
おなじみの太郎冠者・次郎冠者が出てくる『棒縛(ぼうしばり)』となると、もはや典雅な吉本新喜劇というか・・・。20分というコンパクトなサイズの中での、なんと隙無い笑いへの仕掛け。
狂言が、伝統芸能という枠からするりとはみだしたところで、しかし「型」そのものを楽しめるということ、もちろん現代的な笑いの工夫も、その台詞の言い回しなどに感じるところもありますが、それは能が「虚構」の制度をかっちりと作るのに対して、狂言の例えば太郎冠者は、室町時代にあってみれば、客席の隣に座っていた青年であったかもしれないような宴席での即興劇的な側面があっての事なのかもしれません。劇中の「いま・ここ」と客席の「いま・ここ」を決して別ものとはしないこと・・・というか、そもそもこのふたつに断絶があるとは思っていないこと。
それが狂言の演劇としての特性なのかもしれません。
また、それは「お豆腐狂言」である茂山千五郎家狂言の真髄でもあるのかも。
これ以上突っ込んで書くと、無知がばれますので、「これはこの辺りに住まいいたす者でござる」という狂言の代表的な名乗りについての茂山千之丞さんの記述を引いて終わることにします。

実は今、上演可能な狂言作品二百五十番の内、約三分の一はこの名乗りで始まるので、狂言登場人物の代表的自己紹介といってよいと思います。多くの狂言で最初に登場する人物、たとえばある家の主人は観客に向かって「私はこの辺りに住んでいる男でございます」というのです。ではこの辺りとはどの辺りなのでしょう。これはどう考えても、今、現に、狂言を演じている、その辺りとしか考えられません(数年前、永六輔さんがこれをモチーフにして『この辺りの狂言でござる』という新作狂言を作られました)。こう考えると、能が歴史劇・時代劇であるに対して、狂言はまぎれもない現代劇です。狂言の草創期に現代劇であったことは当然として、六百年をへた今日でもなお現代劇としていき続けていると言えるのではないでしょうか。

--茂山千之丞狂言じゃ、狂言じゃ!』p.40

狂言じゃ、狂言じゃ! (文春文庫)

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