みみのまばたき

2006-2013 箕面の音楽・文学好きの記録です。

新年のアントン・ヴェーベルン。

nomrakenta2008-01-03


午前おそく11時くらい。太陽が暖かく照り始めたので、瀧道を小走りでいって汗をかく。
昨年秋頃に埃がついたまま拭いてしまったらしく、眼鏡のレンズに細かい傷が霞のようになってとれず、結局駄目にしてしまったので、「眼鏡市場」に購いにいく。
どれでも18900円とのことで。
右目が左目にくらべて近視が段違いに悪いのだけれど、右を1.00くらいにもってくると、左右でバランスが悪くなって悪酔いしそうな眼鏡になる。ということでやはり右は近視を2度ほどあげて、そこそこ観れれば良いでしょう、ということに。前の眼鏡を買うときも、たしかこんな会話だったなと思い出した。
横に長いフレームがまったく似合わないので、やはりまだマシな丸いフレームに。ところが度数のレンズの在庫がないとのことで、10日までに仕上げますので、申し訳なさそうに言われた。在庫がある場合は、小一時間で仕上げてくれるみたい。
別に急いでないからいいけども。


「聴き初め」という意識はまったくないのですが、年末から年始にかけて、妙に弛緩と緊張と同義であるかのような独特な空気に嵌ってしまい、ついつい何度も聴き返しているのが、ヴェーベルンの弦楽です。

タッシ・プレイズ・ウェーベルン(紙ジャケット仕様)

タッシ・プレイズ・ウェーベルン(紙ジャケット仕様)

これは、新ウィーン楽派アントン・ヴェーベルンの「四重奏曲Op.22」と「4つの小品Op.7」、「ピアノのための変奏曲Op.27」「3つの小品Op.11」をピーター・ゼルキンの「タッシ」が演奏したもの(1977〜78年の録音)。後半は武満徹の「遮らない休息Ⅰ〜Ⅲ」、「ピアノ・ディスタンス」「ファー・アウェイ」「閉じた眼」をゼルキンがピアノソロで。

以前、デレク・ベイリーのギターでのフリー・インプロヴィゼーションのごく初期の影響源に、ヴェーベルンの装飾や音響的な広がりがない、ひとつのひとつのフレーズがただ気配であるような点描音楽が挙がっていたことを知ってヴェーベルンを聴きたくなったのでしたが、その時聴いたのはたしか、ブーレーズによる交響曲かなにかで、CDも今どこにあるのかわからないのであって、しかもそのときの印象は先入観からしてしっくりこなかった。
でもこの盤と、あとエントリー右肩写真のアルバン・ベルグ・カルテットが1975年の演奏したTELDEC盤のいくつかの弦楽四重奏を聴いて、やっと納得いったところがあります。
このTELDEC盤を大阪梅田の中古盤屋さんで見つけたときは、嬉しくなって小躍りしそうになりました。まずこの写真のメンバーの風貌がたまらなく、いい。これは絶対に期待通りのものが聴けそうだ、と思ってやはりその通りでした。こういう好んで向かう予定調和もあるわけです。

アルバン・ベルグ・カルテットがここで演奏しているのは、
弦楽四重奏のための5つの楽章 Op.5』(1909年)
弦楽四重奏のための6つバガデル Op.9』(1913年)
弦楽四重奏曲 Op.28』(1937-38年)

と、年代順にヴェーベルン弦楽四重奏曲を全て演奏してくれている。

ヴェーベルンの『5つの楽章』の1楽章は、<激しい動きで>だからですが、のっけから空中戦のような弦の間合いの取り合いが、空気を張り詰めさせてくれます。でもその後の弛緩がまたいいんですよね〜。
ときどき前の音と後の音が完全に結びついていないんではないかと思うところがまあ、デレク・ベイリーのソロっぽくないとはいえない(←ここに張られているリンクがおもしろい)けれど、とにかく息を呑んでしまったのは楽曲の「短さ」です。『弦楽四重奏のための5つの楽章』の各楽章の演奏時間は第一楽章から順に、2′23″、2′23″、0′40″、1′42″、3′28″。そして『6つのバガデル』に至っては「6つ」なのに、3′57″と・・・平均すればラモーンズの曲のほうが曲が長そうである。
「フハッ」(@水木しげる)と感嘆の声をあげたって、これは許されるのではないか。
とはいえどの楽章も、コルレーニョ、ピチカートといった特殊奏法の切込みが、圧縮された空気に見晴らしを与えながら、緊迫とも弛緩ともつかない、ただし装飾というものは排されたある種の情感(それ以前の情感から否定神学的に切り出されたような凹的存在する情感)を通風させようとしているようで、結果的な短さは、やはり本質なものではないのかと。
誰かがアート・リンゼイがノーニューヨーク時代にやっていた「DNA」を評して「ロック界のアントン・ヴェーベルン」といったのいわないのという記憶がありますが、たしかに・・・という気がしたもんです。

これがこの盤の前半で、後半はハウベンシュトック=ラマティの『弦楽四重奏曲第1番-モビール』(カルダーの動く彫刻「モビール」に被インスパイア?)と、ウルバンナーの『弦楽四重奏曲第3番』。特に『モビール』の演奏は、ヴェーベルンの音楽をさらに推し進めたような感じで、かなりけったいな奏法が聴けます。音と音との関係はますます希薄になってきて、ときどき打楽器のような音にもなるのですが、4人の演奏がかろうじてつなぎ止めているような緊迫感。


同じくヴェーベルンに影響を受けたといっても、ブーレーズシュトックハウゼンは、トータル・セリエリズムへと向かい、ケージは『音楽の神髄とは間合いと呼吸にあることを教えた作曲家である』といったらしい。前者2人は音響内部の連関を追って記譜法へ、後者は音響的な最接近領域からの理解、といったところなんでしょうか。いずれにせよ、近代音楽(第二次世界大戦前)の最期にちょうど位置しながら現代音楽(第二次世界大戦後、言うまでないか)の分岐点といった位置付けになる。しかし、これはあくまで結果論。
トータル・セリエリズムの曲を聴くと、僕はたびたび息苦しさに襲われるのですが、ヴェーベルンの弦楽はそこまではいかない。緊迫と濃密がはっきりと区別されていて、音と音との間には清冽な風が吹いているような感じで、それは沈黙への余地を暗示しているとも思える。

ヴェーベルンが残した作品は31しかない。
ブーレーズが監修・指揮した全集があって(未聴)たしか6枚組だったと思いますが、ようするにあれで全部ということ。
もし、1945年に娘の家にいなければ、もし娘の夫が元ナチスで闇取引をしていなければ、もしベランダに出てタバコに火をつけなければ、誤って撃ち殺されることもなく、ヴェーベルンはどんな音楽を作ったのか。

そんな想像が新年にふさわしいのかどうかそんな判断は、晩年の沈鬱ともいえるしかめっ面からすれば意外なほどしなやかな表情をもったヴェーベルンの弦楽曲を聴きながら、とりあえず停止しておきましょう。

このエントリーで参照したページはこちらです。↓
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%B3%E3%83%88%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%83%B4%E3%82%A7%E3%83%BC%E3%83%99%E3%83%AB%E3%83%B3

追記))
これを書いた後にテレビで「古代ローマ1000年史」という番組を観た。*1
あまりにベタな締めくくりではあるけれど、やはりヴェーベルンは事故死していなければどんな音楽を作ったかが、ここで大切なのではない。大切なのは、ヴェーベルンはそのようにその時に死んだのであり、だからこそあたかも永遠に未完の烙印を押されたかのような作曲家ヴェーベルンとしてその音楽を聴いている2008年の僕らがいる、そのことなのである。

*1:まったく必要性を感じられないみのもんた他は記憶から消去するとして、BBCの作成したドラマはよく出来ていた。NHKの大河ドラマの戦国ものが、あの戦闘シーンに拮抗することは絶対にないのだろうなあ。