みみのまばたき

2006-2013 箕面の音楽・文学好きの記録です。

NHKで『鬼太郎が見た玉砕』を観る

暑すぎる。日差しの強烈さが毒々しい。日光に重さがあるんではないかとさえ感じる。
ので、昨日と今日は5時に起きて箕面瀧上までのウォーキングを敢行。別に早起きしているわけでもない。起き易い時間がその時間なのであって、この時間なら山に遮られて凶悪な日差しは届かない。それでも瀧道を歩いている人の数が普段と変わらない。皆さん思いは同じなんであろう。熱中症は怖いが、身体を動かせないのはもっと怖い。さすが盆だけあって、瀧道では有名人のタイガース爺さんが息子と孫を連れて自慢しながら瀧道を歩いているのを、生暖かく見守りながら、いつもよりペースをあげて汗を搾る。
帰って図書館。5時まで図書館。「グレン・グールド発言集」の序文を読む。今度借りよう。「台湾の歴史」という本を見つける。これは借りて帰る。最近「彰化1906年」という小冊子を読み始めていて、これは台湾の都市「彰化」の当時の「大日本帝国」による市区改正による都市の二重化を克明につづった内容のようなのだけれど、理由もよくわからず興味をもってしまっていたので、基礎知識のために。

台湾の歴史―古代から李登輝体制まで

台湾の歴史―古代から李登輝体制まで

夜9時からNHKで、楽しみにしていた水木しげるの『総員玉砕せよ!』を下敷きにしたドラマ『鬼太郎が見た玉砕』を。

総員玉砕せよ! (講談社文庫)

総員玉砕せよ! (講談社文庫)

香川照之はまさに怪演。「水木さん」に徹していたが、もっとドラマをわかりやすく盛り上げる演技の方向もあったんではないのか。上手いのはわかってる。それでも上官にビンタされ続けるのはすごい。まさにあの「ビビビビビビビビビビビッ」という感じなのだ。奥さん役の田畑智子が出番は少なかったが素晴らしい。こんな佇まいの出せる人だったのか。
小学生〜中学生で『河童の三平』やサンワイドコミックスで復刻されていたレアな短編を読了していた僕にとって(・・・ちょっとくらい浸らせてください、何せ当時は京極夏彦などいなかったのですから)、水木しげるといえば、なんといっても『ほんまにオレはアホやろか』だった。全小学生、いや全中学生必読の書とするべき自伝である。国費で支給すべきだ(オレはそのために税金を払っている)。あと『昭和史』も。
ほんまにオレはアホやろか (新潮文庫)

ほんまにオレはアホやろか (新潮文庫)

戦記ものを通じて水木しげる本人の描写は、食欲と睡眠欲に代表される水木さん哲学がどうしても強く感じれてしまう。悲惨な描写も当然克明に描き込まれているが、劇画的な背景に浮き上がる飄々とした人物群像がやはり水木しげるの「声部」としてこちらには浮き立ってきてしまう。と、同時にそれを成り立たせている背後の過酷さも実はその奇妙なバランスから読む者は受け取っているのだと思う。僕自身は、戦場から太って帰ってきた、みたいな描写の奥に、水木しげる自身のリアルな苦悶は想像するしかないのだし、そんな水木しげる作品の、泣くに泣けない・笑うに笑えない(そしてもちろん怖がるにも怖がれない)感覚は、手塚治虫とはまったく違うやり方で、漫画というものの限界を体現しているのだ思ってきた。
今回のドラマもそんな印象を手堅く守り抜いているように感じた。ハイビスカスのCGなどは色彩も美しく、描かれた鬼太郎やねずみ男が動き出すところは、最近ではあまり新鮮味を感じない手管とはいえ、やっぱり小学生からの水木ファンとして嬉しくなってしまった。
水木しげるの哲学といえば、やはり腹いっぱい食うことと眠ることを妨げる暴力は全てうさんくさいものなのだ、というところだろう。しかしそこに同意するだけで止まっていては、水木しげるの方法がいまひとつ実感できない。「見えないもを見えるようにする」。水木しげるは漫画に限らず妖怪大百科のような自らの膨大なアートワークに対して上記のパウル・クレーの言葉をひいていたと思う。それを含んでいえば、特に戦記ものは、語られないもの、語る力を失ってしまったもの、不条理というのもおこがましいような力で今は存在していない声に語らせるためにある。聴こえない声を聴こえるようにするためにあるのだ。
それはドラマで「水木さん」が『総員玉砕せよ!』制作に向かう動機としても描かれるが、誇張でも何でもない。作品を成り立たせるギリギリのモチーフ、および細部でさえあったのだと思う。
大友良英の音楽も自然に寄り添っていたように思うが、ジャズっぽいオーケストラによる部分より、冒頭のパプア・ニューギニア民族音楽を模したと思しき部分の方が繊細な感情が出ていて興味深かった。