阿久悠
家に帰ったら、NHKで阿久悠の追悼番組*1をやっていた。
麦酒片手に観ていたら、最後までやめられなくなってしまった。
『「ノイズ文化論」講義』の宮沢章夫ではないけれど、歌謡曲とニューミュージック的なものをできる避けて、マイナーなロックから見えてくる音楽の方へ「背伸び(by岡田斗司夫)」していった覚えがあるので、それはやはり、「歌謡曲が聴きたくなくて」という心性にかなり近いものだったのだと思う。
だから、自分が阿久悠の歌について何か知っているとか、特別な思い入れがある、ということは全くないし、言う権利もないのだけれど、それでもこの追悼番組で流されるヒット曲の数々が今見ても史料的な意味を超えておもしろかったことは否定できないし、否定しなくてもよい。そんな懐の広さが、やはりある。
「不幸そのものを歌うのではなくて、不幸の一歩手前のせつない気持ちが満ちている感じ。そんな感情がある社会がいいのだ」というようなコメントに、自分が「また逢う日まで」や「ジョニイへの伝言」からはじまって、ピンク・レディーの空虚さはもちろん「あの鐘を鳴らすのはあなた」においてさえ、その歌詞がうたわれるときにいつも感じてきた、感情に溺れきらないことばのよくわからない宙ぶらりんさ。それがやっと腑に落ちる気がした。この宙ぶらりんさが絶妙だから、深く考え込んでみたりもできるし、聴き流すことさえできるのだろう。それっておそらくポップの王道である必要条件なんだろう。
阿久悠が「歌」の世界へ向かう自分を意識したのは、少年時代に聴いた「テネシー・ワルツ」だったらしい。そして、これもどこかで聞いた覚えがあるんですが、阿久悠は「美空ひばりが絶対歌いそうにない歌をつくる」を最初のコンセプトにしたらしい。*2
乱暴な妄想をして楽しむと、阿久悠は「テネシー・ワルツ」から弾き返される自分でもって「美空ひばり」とかぶらない真っ白な空間を埋めようとしたのかもしれない。
だとすれば、その自由さと表裏になった寄る辺無さは、ビートルズに似たものがあるように思う。
ちょうど今読んでいる本の用語で言えば、阿久悠は、自分のディスクールを、テレビという理想的な時代環境においてもっとも刺激的で具体的な「かたち」を与えることができ「阿久悠」という言語態を自己完結してみせた、ともいえる気がしてきた。そしてもちろんそんなことは極めて稀なことなのだ。
と、およそこのブログらしくなく、また阿久悠ファンにとっても絶対不用であろうエントリーをアップしたところで切り上げて、明日は阿倍野に「ふちがみとふなと」を聴きにいってきます。
*1:プレミアム10「ありがとう阿久悠さん〜日本一のヒットメーカーが生んだ名曲たち〜」
*2:しらべてみたらこれがでてきた。http://www.mainichi-msn.co.jp/shakai/wadai/news/20070803k0000m070133000c.html