みみのまばたき

2006-2013 箕面の音楽・文学好きの記録です。

ジョン・ケージをドライヴさせる:『アート・オブ・トイピアノ マーガレット・レン・タンの世界』

上記DVDをやっとちゃんと観れました。
邦題タイトルからアルバム『アート・オブ・トイ・ピアノ』の映像版と思っていたら、とんでもない。現在世界で唯一人の「トイピアニスト」、マーガレット・レン・タンの音楽人生を凝縮してみせた充実のドキュメンタリーでした(つくりとしては、「アート・オブ・トイ・ピアノ」部分に前後を作り足したような感触)。
加えて、特典映像として50分強のパフォーマンス(今年3月来日時のインタビューもあり)が収めれられています。
観終わって再認識したのは、非常にベタですが現代音楽において作品をリアライズする演奏者がいかに重要か、ということでした。
マーガレット・レン・タンのHP

個人的に、ピアニスト、マーガレット・レン・タンを知ったのは、現代音楽専門のピアニストとしてケージ作品の演奏者として、でした。たしか『危険な夜』のCDだったような気がします。
そのあとMode盤の『John Cage: The Works for Piano, Vol. 4』を聴きました。

The Works for Piano, Vol. 4

The Works for Piano, Vol. 4

実は僕にはこれが決定的な印象でした。ケージ聴きならWergo盤のシリーズでおなじみの筈の「トーテム・アンセスター」や「Music for Marcel Duchamp」、ジャズ習作やモビール作家のカルダーのドキュメンタリー用に書かれた音楽、比較的ケージの中でも陽のあたらなかった(であろう?)作品が、レン・タンのピアノによって活き活きとドライヴしていました。
有名な佐藤聰明との『リタニア』を聴いたのは実は最近でした。

さて、ドキュメンタリーの前半は、レン・タンに多大な影響を与えた「3C」について。
ピアノ奏法を革新したカウエル(内部奏法etc)、ケージ(プリペアド・ピアノetc)、クラム(エクステンデッド・ピアノetc)を巡るおはなし。レン・タンの音楽形成はもちろんですが、アメリ実験音楽の中でピアノ音楽に新しい音を付け加えた(というのか、クラシカルなピアノ奏法の安泰に疑義を差し向けた)三人の功績を概略的に紹介しています。もちろんケージ一人をとってもピアノに対するアプローチだけが全てではないので、決定的な印象を持つのは危険でしょうけれど、この三人に沿ってキャリアを展開したレン・タンの狙いのぶれの無さが目立ちます。

後半はトイ・ピアノの領域の開拓。
現代音楽の枠を超えてアピールしそうなのは多分この現在に通じる活動のほうかも。
音色のコントロールが難しく(というより不可能)、音域も狭いおもちゃの楽器を、並外れた集中力と技術で弾き切ることによって、逆説的なダイナミズムと本来的な美しさが表出していると思います。ミニマル・ミュージック的なところやアヴァンポップな響きをするところも無論あります。
「粗末な道具ほど技術が必要だ」というマルセル・デュシャンの言葉を引用しながら、レン・タンは続けます。
モーツァルトやベートーベンの演奏にトイ・ピアノを使用することには、決して的外れではないと思っています。なぜならその時代、ピアノは現在のようなフォルテピアノではなくもっとシンプルないわゆるハープシコードだったのですから。」

Art of the Toy Piano

Art of the Toy Piano

個人的にポイントなのかな、と思ったところが数点。

①ひとつは、レン・タンがシンガポール出身であること。これはレン・タンが佐藤聰明やジ・ガンリュなどのアジアの現代作曲家の作品ととりあげるときのバランス感覚になっているではないかと。

②もうひとつは、幼少の頃から強迫観念がセロトニンのレベルで神経を高ぶらせる症状を持っていること。病跡学でもないのですが、観ているとどうも、彼女の生活と演奏双方においての極度の完全主義、そこから自ずと生まれくる演奏の迫力に関係しているような気がします。

③最期は、レン・タンがジュリアードを出たあと、しばらくピアノからクラシック音楽から離れて盲導犬のトレーナーになろうとしていた時期があったということ。実際2頭の盲導犬を育成した経験があるとのことですが、このあとプログラムの不徹底からこの道を断念、心機一転ピアノの道に戻ってきたのだとのこと。急にピアノの世界が象牙の塔のように思えたのだそうです。ケージの音楽によって180度彼女の音楽が変わるのはこの頃です。レン・タンには誠に申し訳ありませんが、この挫折は現代音楽好きにとっては結果的に喜ばしいことになったわけです。さらに、いったん捨てて戻ってきているスタンスが、一貫して現代音楽の中央を突破しているようでいて、権威化へと進まないスタンスにもつながっているような気がします。

トイ・ピアニストとしての活動は、二分化してしまった音楽のプロとアマチュアの垣根を突き崩していく魅力があります。

ただ、それだけだろうか、とも思います。
ピアノ4台を渡り歩くケージの『One2』(レン・タンはケージと共同クリエイターとなっています)を弾くにせよ、トイ・ピアノで『ピーナッツ』のシュローダーの弾くベートーベンの『月光』をアニメに合わせて再現してみせるにせよ、あたりまえの事ですが(といっても彼女のレベルで、というのが唯一無二のことと思えるのですが)、レン・タンの演奏は、たとえどんな作曲家であっても、結果的に演奏者であるレン・タンを前景化して感じさせるものになっているように思えます。
レンタンの演奏には一気に突っ切る呼吸があるのです(これは、楽譜を切り貼りして大きな一つのシートにして弾いているのを観て、何か腑に落ちるものがありました)。
レン・タンの演奏は単純にわかりやすいというものでもないのだと思います。それは、十分に修練を積んだ音楽家が、「象牙の塔」に閉じ込もらずに、冒険に乗り出したときにのみ、感じれる感銘なのだと思いますし、レン・タンはそれをずっと続けているのだと思う。

ドキュメンタリーの中では、多くの音楽家・評論家がレン・タンの驚異的な演奏にコメントを寄せています。中でもNYタイムズの評論家エドワード・ロススタインのコメントは、本人がはっきりとケージ嫌いを自認しているだけに興味深いものでした。

ケージの作曲方法からいえば、音符と音符の間には何の関係もないのだが、才能ある彼女(レン・タン)は、音符に関係性を生まずにいられない。

要約すると、ケージの曲の一音一音は、コンセプト的に互いに連関無いように作曲されているが、レン・タンの技量はそれをあたかも連関しているように聴かせてくれる、というもの。
また、LAタイムズの評論家マーク・スウェッドはこう言っています。

タン(の演奏)は驚くほど重厚で、みずみずしい音をピアノから引き出した。〜音の高低と中心点を確実にとらえてケージの音楽に生命を与えた。
音の内部に神経を集中して深い響きを聞かせてくれる。

例えばケージ作品の演奏では、多くの演奏家はコンセプト通りに演奏することで、作曲の意図どおり連関の無い音になる。これは聴くものにとって作品様態の確認にはなりますが、多くの場合、隔靴掻痒感覚の醸成へと導く結果になっていて、音楽的経験としてはもったいない面があるように思います。個人的にも現代音楽のアルバムで「これはよかったな」と思い起こしてみたら、大体演奏者が同じ、ということがよくある。
レン・タンが弾くとその連関が超絶なテクニックと没頭感覚によって、埋められてしまうのです。

それは、カウエルやクラム作品でも、ピアノ絃を、紐でこすって音を出したり指先から血が吹き出るんじゃないかと思えるほど激しくはじいたり、といった奏法であっても、そのアタック、強弱のコントラスト、デュレーションまで全てに神経が行き届いていることが伝わってくるものです。

曲のコンセプトはそのままに、そこからよりはっきりと演奏という現場で音楽のもう半分を駆動するレン・タンの切れ味が表出しているのです。

レン・タンに譲られたピアノの絃のみで演奏する「ストリング・ピアノ曲」『In the Name of the Holocaust』(ジョイスの「フィネガンズ・ウェイク」中の文「In the Name of Holy Ghost」もじり)の演奏について、ケージと二人で話すシーンがあり、レン・タンが「(タイトルの)政治的な含意についていつもあなたは話をそらすけど、それは作品に語らせようとしているのよね」と質すのに、作曲家は「そう」と答えた後にこう言い添えることを忘れません。
「今では君の方が雄弁に語ってくれるよ。曲に生命を与えたんだ。」
このドキュメンタリーを観終わって思うのは、このケージの台詞には、全くアイロニーが含まれていないだろう、ということです。
「ケージが生きていれば、私がトイ・ピアノに関してやったことを喜んでくれる筈。」
それは、確信に満ちていて、また納得できる発言です。
ケージの場合、優れた演奏者(特にピアニスト)はケージ自身を超えていくような印象があります。デビッド・チュードアしかり、このレン・タンしかり。ケージが演奏者に託した「自由」とは、多分作曲家を超えて作曲するようなスタンスをとることでもあったのでは、と思いますが、チュードアやレン・タン(あるいはまた、レアンドル)といった演奏者はまっこうにそれを受けきった人たちなのだなと、あらためて感じたわけです。

来年(2008年)には、トイ楽器による二つの作品集が、CDとDVD両方でリリース予定とのこと。これも楽しみです。