みみのまばたき

2006-2013 箕面の音楽・文学好きの記録です。

Jew’s Ear『ディファレンシャル・インテグラル・アンド・ファインムード 』/消費者/『プロフェッショナル』の鈴木成一

ディファレンシャル・インテグラル・アンド・ファインムード

ディファレンシャル・インテグラル・アンド・ファインムード

大阪の雑食性ジャムバンド?バンド名は日本語に訳すと「きくらげ」らしいです。かわいいのか気持ちわるいのかよくわからないイラストと2色でまとめたジャケもいい感じ。
先のエントリーのシー・アンド・ケイクの最新作の直後に聴くと、見事に音が繋がっていた。
たしかにジャズ、プログレ、ミニマル、民族音楽などなどフリーキーな雑食性の魅力・・・をひとつひとつあげていくと何事か語ったことになるのかもしれない。
でも、当たり前な話ですが、インスト・ポストロックとでも形容されてしまいそうなこういったバンドの普遍的なセンスの良さ=「耳」の良さというのは、分け隔てのない消費者としての体験もまた多分にあるのだろうなと思う。そういう聴者との共通の体験がかすったり、はぐらかされたりする場面が最も魅力的なんだと。
まったく唐突に、そして強弁的に、柄谷行人の台詞を思い出す。

しかし、消費者といっても、それは労働者と別のものではない。人は生産過程におかれると労働者であり、流通過程におかれると消費者になるだけです。したがって、労働者が普遍的になるのはむしろ生産点を離れたときです。(中略)
「プロレタリアには祖国がない」とマルクスは『共産党宣言』に書いた。しかし、生産過程の労働者には祖国があります。そこで、「消費者に祖国はない」と私はいうのです。
柄谷行人近代文学の終わり』p.98-99

風呂あがりにNHKをつけたら、『プロフェッショナル』が終わりかけで、装丁デザインの鈴木成一が出ていました。
仕事が煮詰まってくると他の仕事をして、その過程のふとした目にひっかかる印象を梃子にする。これ、なんとなくわかるような気がする。のめり込んでいては良し悪しの彼岸にいってしまうのだろう。個別の深い差異の中に入り込んでしまって際限がなくなってしまう。
しかし装丁家とは、そんな深みからではなく、反対にもっとフラットな周囲の印象(端的にいえば、書店の棚のそれ)からひとつの本を際立たせるために仕事をするのだ。
そういえば、大昔ラウシェンバーグが「一つの作品を片付けてから、次というのは実は効率悪すぎる。良い仕事ができているときは常に複数の仕事を同時進行している。」というような事をいっていたような気も。とはいえその時写真に写っていたラウシェンバーグのスタジオは巨大なキャンバスを20枚くらい置いても空きのある広大なものでしたけど。
最後のいつも「プロフェッショナルとは?」の鈴木氏の一言。
「次の仕事が来ること」
揚げ足のとりようのない完璧な答えだなあ、と。しかも衒いもない。鈴木成一デザイン室の装丁は、僕にとってはいつも、本を手に取って最初の頁をめくるきっかけを与えてながら、読んでいる間はその存在を完璧に消していて、読後感と寄り添うと、装丁もまた別個の作品であったことを気付かせてくれる二度おいしいもの。書店で目に付いた本のクレジットを確認するとやっぱり鈴木成一ということも、皆さん多いのでは。