みみのまばたき

2006-2013 箕面の音楽・文学好きの記録です。

オマージュするミステリ:山田正紀『僧正の積木唄』と横溝正史『本陣殺人事件』

ブック○フで安かったので買いおき、気が向いたら読もうと思っていて気が向いたので。山田正紀のミステリは初めて読みましたが楽しめました。
山田正紀は遥か昔に『神狩り』とか『宝石泥棒』を読んだ事がある。『宝石泥棒』は、『地球の長い午後』テイストが強烈で好きでした。)

この作品は、ヴァン・ダインのミステリ古典「僧正殺人事件 (創元推理文庫)asin:4488103049(未読)と横溝正史の「本陣殺人事件 (角川文庫)asin:4041304083(こちらは昨日読了)を下敷きにした作品になってます。
どういう点で下敷きなのかというと
まず『本陣殺人事件』にはこんな記述があって。

かれは十九の年齢に郷里の中学校を卒業すると、青雲の志を抱いて東京へ飛び出して来た。そうして某私立大学に籍を置いて、神田あたりの下宿をごろごろしていたが、一年も経たぬうちに、なんだか日本の大学なんかつまらんような気がして来たので、ふらりとアメリカに渡った。ところがアメリカでもあまりつまるような事はなかったと見えて、皿洗いか何かしながら、あちこちふらふら放浪しているうちに、ふとした好奇心から麻薬の味を覚えて、次第に深みにおちこんでいった。
 もしもこのまま何事も起こらなかったら、かれも立派な麻薬中毒患者として、在留日本人間での持てあましものになったろうが、そのうちに妙な事が起こった。サンフランシスコの日本人間で、奇怪な殺人事件が起こって、危うく迷宮入りをしそうになった。ところがそこへふらふらと飛び出していったのが、麻薬常習者の金田一耕助で、見事にかれがこの怪事件を解読してのけたのである。

横溝正史『本陣殺人事件』p.80-81

これこそ金田一耕助の登場を告げる最初の文章なのらしい。ちなみに『僧正の積木唄』では阿片窟でまどろみにどっぷり沈んでいる金田一耕助を見つけ出すのが、なんとピンカートン探偵社をやめて作家に転身したダシール・ハメットなんである(明記はされてませんが、多分)。
このあたりなど浅田次郎の『壬生義士伝』の中での子母沢寛(これも明記されず)の存在に通じるものが。
この「在米日本人の間で起こった殺人事件」というのが、この作品でおこる「事件」で、舞台は1930年代(だと思う)のアメリカ。
第二次大戦になだれ込もうかという状況で、日系アメリカ人がアメリカ社会で排斥されているのは現実の歴史と同じで、違うのはヴァン・ダインの『僧正殺人事件』が実際の事件として記憶されていてしかも未解決だったというところ。
その世界で「僧正殺人事件2」が起こってしまう。
ヘミングウェイの『殺人者』やらフロイト、シュールリアリズムへの言及、『カリガリ博士』、『吸血鬼ドラキュラ』などの「モンスター・ムービー」やら、原爆実験の仄めかしやシャーロック・ホームズなどのおいしい要素として散りばめられてます。
ことほど左様にこの作品、ミステリ好きなら、あるいはジャズエイジが好きなら誰でも見当がつく=知らなきゃ感応できない断片で埋めつくされているわけですが、もちろんそれは単なる「引用」とはいえず、先人の作品世界を積極的な形で認めてしまうという「間テクスト的な世界」でしか語れないおもしろみもあるわけです。
それでもそのトリッキーさが、ポストモダンちっくな嫌味な仕掛けになってしまっているわけではないのは、そもそも山田正紀がとことん素直にオマージュを捧げようとしているからだと思えたり。

そういえば、最近読んだ新書『物語の役割』の中で、小川洋子が下記のようなことを書いていた。

 小説を書いているときに、ときどき自分は人類、人間たちのいちばん後方歩いているなという感触を持つことがあります。人間は山登りをしていると、そのリーダーとなって先頭に立っている人がいて、作家という役割の人間は最後尾を歩いている。先を歩いている人たちが、人知れず落としていったもの、こぼれ落ちたもの、そんなものを拾い集めて、落とした本人さえ、そんなものを自分が持っていたと気付いていないような落し物を拾い集めて、でもそれが確かにこの世に存在したんだという印を残すための小説の形にしている。そういう気がします。

小川洋子『物語の役割』p.75

なぜなら、小説は「語り」であるゆえに本質的に過去を表現するものであり、「言葉は常に遅れてやってくる」からだと小川洋子は書いて(言って?)ました。
その意味では、しつこいようですが、過去の名作の数々も確かに「存在した」ものとして考えることが十分出来るわけで、だとすればこの『僧正の積木唄』も愛着に満ちた形でひとつの世界を語りあげたと言えるのではないのかと。

Varese;Cpte.Works Vol.2

Varese;Cpte.Works Vol.2

1915年にニューヨークに渡ったエドガー・ヴァレーズの有名な打楽器による『イオニザシオン(電離)』は1931年の作曲。
上の小説世界と同時代・・・といえるのかと。
旋律一切なし、リズムと音色だけで構成された音楽というか音像は、メタリックで官能的な肌触り。