みみのまばたき

2006-2013 箕面の音楽・文学好きの記録です。

みみのまばたきも一年:デレク・ベイリー『To Play』

nomrakenta2006-12-30


いまいち運動不足感が残っていたので、今日の瀧道行脚には、この夏に挫折して心のこりだったコースをオプション追加。
いつもの瀧の上からさらに百年橋という小さな橋を渡って、役行者箕面山で昇天したときの現場といわれる「天上ケ岳」まで足をのばす。
五月山に向かう尾根道の途中を、ちょっと降りたところにあるそんなに広くもない場所で、役行者像があり、修験道の聖地とのこと。
箕面のWIKI
昨日の寒さが、雪になって白く残っていて、空気がいうまでもなく、うまい。
いつも瀧道の往復に一時間半かかるが今日は2時間半といったところでした。
帰ってシャワーを浴び、窓ガラスなど拭いて部屋の掃除。今年一年で書店やブック○フで買ったまま積ん読状態の文庫・新書類を呆然と眺める(プチ書痴ゆえ、悪い気分ではない)。

To Play: the Blemish Sessions

To Play: the Blemish Sessions

そういえば、
昨年の大晦日、12月25日にデレク・ベイリーが死去したとの訃報をきいて、最初のブログへのエントリーを1月1日に、ベイリーの『Balladsasin:B000063BUWた。
今読むと、「あんたは、いったい、なにがいいたいの?」と眉根に皺の山脈をつくりたくなる文なので、読んでいただいた人には申し訳ない気分に。
ブログをはじめてこの一年、自分の文章をなんとかしたい、と思いながらも、ポツポツとコメントもいただけるようになり、「極私的」というコトバに関してのエントリーを読んでいただいた詩人の鈴木志郎康さんから、貴重な映像作品のDVDまでお借りすることができて、自分としてはやっとネットの中で、なにかを書く(言う)ということの手ごたえを感じれたような気がした一年だった。
それで、というわけでもないけれども、区切りというかケジメというか、
今日はこれを聴いてみることに。
デヴィッド・シルヴィアンの『ブレミッシュ』は、デレク・ベイリーだけでなく、FenneeZとの共演も含んでいつつも、アート感覚のいやなところからも遠いところにあって「開かれている」静かな良作だった。シルヴィアンは以前からベイリーのフリー・インプロヴィゼーションのファンで、本作のためにヴォーカリストとして挑戦ができるトラックをベイリーに依頼したところ、ベイリーは快諾したということです。
その共演のために、ベイリーは一時間分のギター即興演奏を録音しましたが、それがベイリーの死後、あらためてシルヴィアンのレーベルからリリースされたのが本作でした。
ベイリーの熱心なファンとしても有名な大友良英氏によるライナーは、音楽家としての視点からベイリーへのリスペクトが伺えて素晴らしい。
ベイリーの演奏は、遺作で聴くことができたような、手の病さえ表現にとりこんだような壮絶なもの(皮膚病を患ったクレーの晩年の作品を想起。)ではなく、割といつもの(?)丹精でどこに飛ぶかわからない柔軟な脱線骨接ピキピキ節を聴かせてくれて、知的なスリルと美しさを同時に味わえるものかと。
ベイリーが、即興演奏の録音の中で「it's for Vocals」と思い出したように言っているのが、おもしろい。
演奏しているうちに自分のソロと一緒くたになってしまったんだろうか。
それでもシルヴィアンは喜んで歌をのせることに挑戦したんじゃないだろうかとも思うけれど、ベイリー自身のためのソロと「歌伴用」であるこの演奏の違いを云々できるほど、ぼくの「ベイリー耳」は大成していないのだった。

もともと私の即興演奏のランゲージの基盤をなしていたおもな源とおもえるものは、ヴェーベルンの後期の音楽と、いくつかの初期の電子音楽だった。それらが好きだったということもあるが、加えて、ピッチを音程的関係で操作するさいの規制が、他のピッチ操作より少なく、生産的だとおもったからだ(いまでもそう思っている)。
また、初期のいくつかの電子音楽の特色をなしていた音色の明確な差別化は、新しいランゲージを組み立てるのに役立つものと思われた。その新しいランゲージとは、文字通り不連続的で、構成要素同士の因果関係による接合や文法的連関がなく、したがってもっとフリーに操作できるものでなければならなかった。
全般的にみて私が求めていたものは、予見できないということ、不連続性、恒久的刷新、そして恒久的変化といった、ヨーロッパの作曲分野には五、六十年前に初めて導入された考え方に由来する諸要素だったとおもう。

デレク・ベイリーインプロヴィゼーション』p.224

インプロヴィゼーション―即興演奏の彼方へ

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ブレミッシュ

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