みみのまばたき

2006-2013 箕面の音楽・文学好きの記録です。

<極私的>というコトバは:『鈴木志郎康詩集』『続・鈴木志郎康詩集』

nomrakenta2006-11-11

ためしに「ことば」は極私的な用法にも耐えうるからこそ、社会にも繋がっていけるのか、と考えてみる。それともその逆で、社会的であるからこそ、極私にまで落とし込める素材なのか、とも。ヴィゴツキーのいう「外言」と「内言」のプロセスをどこかで同型反復しているような気もする。ともあれ、そもそもこんな場末のブログの内容などはすべて「極私的」だといえないこともない(でなければ存在しませんし)。
<極私的>というコトバをよく見かけます。<極私的>というコトバには、特に信念を曲げるように強要されているわけでもないのに「ゆずれないもの」といい出してしまうようないじましい自虐的ニュアンスが以前はあったように思うんですが、最近はそういったバイアスが全然感じられないのが不思議。
このブログでもCDのレビューを書くときに、よく「極私的名盤」とかいって<極私的>という表現を不用意に多用してきました。まったくの私見では、例えば「個人的には」という言い方では平坦すぎる表現を回避するだけでなく、わざわざ「私的」を「極め」るわけなので、世間一般の常識的な認識をいったん反故にして、なんらかの積極的な意味を見出す(してみたい)といったニュアンスをこめることができるような気がするのですね。頼まれもしないのに個人情報保護とは対極に向かおうとするスタンス、といったら語弊ある以前にちょっとずれているかもしれませんが。
どこぞの音楽雑誌でライターさんが使っているのを気に入って自分でも使い始めた「ことば」だったかと記憶しますが、今日、映画のレビューで愛読しているこちらのサイトのこのページを読んでいると、なんと、この<極私的>ということば、戦後現代詩の詩人の鈴木志郎康さんが「発明」した、との情報が。
正しい表現は下記のとおり。

鈴木さんは、招待状のなかで、<極私的>という言葉を発明してから40年たち、それがいろいろなところで使われているわけだが、「自己を拡散させていく時に感じる痛快な気分、それを得られるのが『極私的表現』の面白いところです」と書いている。
−−−−粉川哲夫氏の日記(2006年10月29日)より

鈴木志郎康氏(→ブログ →HP)といえば、60年代から活躍する現代詩人で映像作家でもある方。60年代に発表した、猥雑なオブジェ感で息苦しいほどの、一群の「プアプア詩」は、「鈴木志郎康問題」ともいわれるほどに現代詩の語彙を拡充した(現代詩に使われたことのない「ことば」を導入した)といっても過言ではない。現代美術でいえば、ネオダダ辺りのロバート・ラウシェンバーグを想起。
原文はこちらの鈴木志郎康氏のHPに載っていました。

http://www.haizara.net/~shirouyasu/2006syasinten/2006syasinten.htmlの写真展用のDMに寄せた文によると、

1967年刊行の詩集『罐製同棲又は陥穽への逃走』に「極私的分析的覚え書」を書き、「極私的」という言葉を使ってから40年になろうとして、自己開示を旨とした表現のあり方が広がって行くのを実感します。
−−−−鈴木志郎康「近所」・石井茂「遠方」写真展「DMに同封した文章」より

とあります。(この覚書は思潮社の「鈴木志郎康詩集ISBN:4783707219」には未収録)
この文だけでは、鈴木志郎康さんが「発明」したという証言になっているとはいえません。
ですが、私にとって重要なのは、現代詩から一貫して<極私的>であり続けてきた鈴木志郎康さんの表現を考えると「発明」なさったのだとしてもまったく不自然でないのだということ。
むしろ積極的にそうであったのだと思うことにした、ということです。

活字がイメージを生むというエロチックな
時代は
終りつつある。

−−−−「三角ドアの家」鈴木志郎康・詩集『石の風』ISBN:4879953911p.82より

いまや都合の良い免罪符のように無意識的に使用されWEBなどでは溢れかえってさえいる<極私的>に込められたものの淵源が、60年代という時代の中で、爆弾のような「プアプア詩」から、「私的」であることを「詩的」に変換してみせるほうへと自らの「ことば」の形相を変えてみせたひとりの詩人にあったという説明だけが、唯一、「ことば」が<極私的>かつ「社会的」なものだということを納得させてくれる説明なのではないのか、とさえ思うわけです。*1
鈴木志郎康さんの表現という営みは、その凝集力はまったく衰えることなく、ことば(詩)→写真→映像作品→WEBなどメディアは変われど、その芯には、絶対に変わらずに絶えず表現の素材と標的を自分(身体)からはじめて大きな放物線を描いて、自分に収斂させているものがある。つまり、ただしく<極私的>なのだなあ。
これは本当にすごいことだ。大抵は社会の中の適当な位置に置きたがるか、それともあきらめてしまうか、だから。
本当の「方法」とは、極めて私的な場所からこそ、磨いていけるものだというメッセージのようにも思える。
映像作品観たいなあ・・・。

*1:「続・鈴木志郎康詩集」ISBN:4783708886富岡多恵子さんが、鈴木志郎康のプアプア詩からの変貌について、下記のようなことを書いておられます。「その後極私的というコトバが冠のように鈴木さんの書くものにかぶせられてきた。多くの散文も、極私的な意志によって書かれた。その散文は、プアプアという一種の軽業芸とは異り、文字通り極めて私的な視点に立ってモノゴトを見ようとする意志に於いて徹底していた。軽業芸が、ひとをアッといわせねばならぬ芸であるとしたら、極私芸は極私的であることによってアッといわせるコミュニケーションをまず閉鎖していた。ひとをアッといわせたいのであれば、大きな花火をあげる方が、芸術的行為より有効であるのは、いつの時代にも変わらぬマコトである。勿論、わたしは鈴木さんのプアプア詩及びそのスタイルを、花火だとは思っていない。ただ、花火のように見上げたひともいたことを鈴木さんは知っている筈である。」