みみのまばたき

2006-2013 箕面の音楽・文学好きの記録です。

細川俊夫作品集 『うつろひ−音宇宙Ⅰ』、松浦正剛『日本という方法』

1.うつろひ(笙とハープのための 1986)
2〜4.恋歌(RENKA)(ソプラノとギターのための 1986)
5.線(フルート・ソロのための 1984

武満徹に比するほど、日本的な情感を現代的な手法の中で成就させている、海外でも有名な作曲家・・・らしいです。尹伊桑、ブライアン・ファニホウなどに師事。
1.ハープの不協和音も交えて注意深く音色の範囲を広げていく歩みに、笙がまた静かに併走していく・・・と思ったら、逆で、笙による吐く息・吸う息の長いストロークの時間枠に、ハープの爪弾きの時間が交わることによってできるゆったりとした「モアレ」のようなものが意図されている様子。実際、笙の演奏者は、ハープ奏者の周りを半円を描くように移動しながら演奏しているため、演奏時間の十五分の間に、笙の音色の音量や位置はゆっくりと物理的に変化していく。
2.万葉集新古今集から採られた3つの歌謡をソプラノがゆったりと間をもたせながら歌うそばを、ギター(ときどきデレク・ベイリーみたい)がずれながら、反復しながら静かな時間をつきそっていく。
3.フルート独奏なのに、尺八のような演奏。
時間が空間に融けていくような無常感(と簡単に書いていいのかわからないが)は、やはり極めて日本的な感覚の抽出なのだろうか。馴染むことはなじむ、確かに。

日本という方法 おもかげ・うつろいの文化 (NHKブックス)

日本という方法 おもかげ・うつろいの文化 (NHKブックス)

やっと読了。
とにかく「日本をどうみるか?」という誰もが言葉を濁すか瑣末な話に引きずり落としたがりそうな問題を正面から語り尽くそうとしている。中には、あの最近豪華本になったWEB「千夜千冊」でも折に触れて語られいたテーマの再話も多いし、NHKの番組で語ったことに数章の加筆を加えたもの、ということだが、トーク調の文章は読みやすいし、「日本という方法」という語りに向けて再編集が重ねられていて、一冊の本として十分な出来だと思います。
白村江の時代から万葉仮名の成立、神仏習合、侘び数寄、連歌、株仲間あたりで一休みして、朱子学陽明学本居宣長島崎藤村内村鑑三、てりむくり、西田幾多郎、北一揮、石原莞爾司馬遼太郎まで殆ど一気に「おもかげ」と「うつろひ」を求めて語り尽くす博学と饒舌に対して、適当なコメントをつけるなど到底無理な話ですが、以下、気になったところを引用させていただきます。
ちなみに上記事で採り上げたCDジャケ画像に写っているのが、本書5章の冒頭に挙げられている現代美術作家・宮脇愛子氏によるステンレスワイヤー彫刻「うつろひ」です。
特に、古事記のはじめの数行の解読に3年をかけた本居宣長についての章からテンションがあがってきているようでおもしろい。

ところで私は、宣長の思想には「触るなかれ、なお近寄れ」というメッセージがあるように思っています。そこには普遍すら近寄れないというメッセージです。そこにはひたすら「清きもの」「稜威なるところ」「明き心」が覗いているだけなのです。
まことに近接しがたい思想です。フラジャイルであるだけでなく、複雑です。宣長は自分が思索した世界を隠したかったのでしょうか。あるいはキリスト者がイエスに合体できたような気持ちになっていたのでしょうか。そうではないでしょう。宣長においては、まさに方法だけが思想になり、方法が世界になっているのです。
p.212

方法こそが内実です。私はそのような意味で方法という言葉を使ってきたのですが、これを内実を動かすことが方法だと勘違いしてもらっては困るのです。また、職能によって方法が決まってくるとか、主題と方法には必ず合理があると思ってもらっても困る。物理学を専攻しているから科学者で、神様がたまらなく好きだから国粋主義者で、海外資金のファンドマネージャーだからグローバル主義者だなんて、そういう見方をしているうちは方法が何ももたらしません。
p.290

金糸雀」や「七つの子」「赤い靴」「青い目のお人形」「カラス」「しゃぼん玉」などの童謡の詩を書いた野口雨情について、子供の歌にしてはあまりに儚くかなしげなモチーフが多いことに関しては、

これらの童謡は異常なことばかりを歌おうとしているのでしょうか。そうではないと思います。どんなことも安全ではないし、予定通りとはかぎらないし、見た目ではないこともおこるし、有為転変があるのだということを告げているのです。それらはまさに子供に向かって「無常」を突きつけているのです。いや、大人にも突きつけた。
子供に道徳を解いているのではない。教育したいのでもない。雨情は道徳教育では伝わりっこないことを、もっと根底において見せたのです。世界も人形もしゃぼん玉も壊れやすいものなのだということ、それらはすでに壊れていることもあるし、壊れたからといってそのことに感情をもてなくなってはもっと何かを失うだろうということを、告発していたのです。
p.300

黒澤明も言っていた(らしい)「子供をなめるな」という言葉を思い出します。それは先日書いたエリザベス・ミッチェルのアルバムを聴いても木霊してきた言葉でした。
司馬遼太郎の言いっぷりに関しては、

司馬は「核心は書かない」「糸巻きのように周りのことを徹底して書く」、そして「最後に空虚なものが残る」という作法に徹していたのです。この司馬メソッドは私が注目しているところです。私も「日本という方法」を案内するには、そのような書きかたが一番いいだろうと思っているのです。とくに核心と空虚を残すという方法です。
p.310

あとがきから。

〜(前略)
日本が「方法の国」であってほしいと思っているからです。「日本の方法」ではなく、あくまで「方法の日本」というところが眼目です。そんなこと、同じだろうと思ってもらっては困るのです。たとえば「映画の都市」と「都市の映画」、「仮説の作業」と「作業の仮説」はちがいますし、「数学の方法」と「方法の数学」はあきらかにちがうのです。〜(中略)〜その方法の記憶こそ母なる日本だと見ているのです。そうであるなら現在なお、日本が日本であろうとするためにも、方法そのものに日本が見えるようにしたほうがいいということです。