環太平洋の心象風景;ケージ、カウエル、ハリソン、ホヴァーネス、佐藤聰明『SET OF FIVE』
北朝鮮がほんとに核実験してしまった・・・ああいやな世の中だ。静かな音楽が聴きたい。
というわけで、これもヤフオクで入手。1000円。以前持っていたのに何故か手放してましたので買い直した格好。
作曲家の顔ぶれを見ればまさに「環太平洋音楽」という意図が汲み取れるが、作曲家によってその表情は様々だ。作風においては徹底した個人主義者たちだった筈の作曲家たちの音楽が、この一枚のアルバム上で、水墨画の薄墨のような神秘的な雰囲気を共有しているのはよくよく考えれば驚きかも。
ともすれば西洋音楽に東洋音楽を取り込んだだけみたいに言われがちに(勝手に)思えるこの辺りの作曲家の音楽に隠された豊かさを的確に表現できるのも、名演奏のアベル・スタインバーグ・ワイナント・トリオであってこそ。
アメリカの現代音楽特にルー・ハリソンやピーター・ガーランドなどの諸作品の演奏ではおそらく世界一なこのトリオ。特にワイナントのどんな難曲にも瑞々しい感性を漲らせてしまうパーカッションは現代音楽の演奏ではもはや欠かすことのできないものの筈。2000年には、US地下ロックの番長ソニック・ユースが自身のSYレコーズから突如リリースした全曲現代(実験)音楽カヴァー集『Good Bye 20th Century』asin:B00002R0NCる。昔日のニューヨーク・スクールにとってのデヴィッド・チューダー(デヴィッド・チュードア・David Tudor)くらいのポジションにいる演奏者と考えてもいいのでは?
こういう音楽を聴いていると普段は絶対使わないことばを使いたくなる。例えば、「寂漠」と「超克」。
ジョン・ケージの『ノクターン』と佐藤聰明の『時の門』はまさに「寂漠」で、アラン・ホヴァーネスの『ヴァハクンのインヴォケーション』は『超克』だろうか、ヘンリー・カウエルの『5つのセット』はこの二つの言葉の間で静かだけども豊かな色彩のグラデーションを添えている。パーカッションの残響やピアノのトーン、ヴァイオリンの三者がほとんど等価に緊張と弛緩のあいだをリズミックに縫い上げ、時にはユーモラスな表情さえつくっていく。「寂漠」が「からっぽ」と同義だとは誰も言ってはいないわけだ。最後のルー・ハリソンは、「環太平洋」という呼称が一番似つかわしい作風で、相反する感情を含みながらもどこまでも優しげだ。曲の表情はカウエルとも似ている。(リズムがメロディーと等価というか、補完し合う形なのはおもしろい特色だ。東洋的なものと西洋的な楽想をつなぎとめるのはリズムだったということか?)
この辺りの作曲家の事情を察していただくために、長くなるが下記文献から引用を。この本の著者は、ケージの代表的な著作『サイレンス』を邦訳された本邦での第一人者といえる方。アメリカ実験音楽と呼ばれた作曲家たちを「現代音楽」から解き放つ視点というか、できるだけ誤解無いイメージを得るには欠かせない示唆に富む。
アメリカ実験音楽は民族音楽だった―9人の魂の冒険者たち (Art edge)
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アメリカの実験作曲家たちは、ヨーロッパ音楽をモデルとするのではなく、そのかわりに非西洋地域の音楽や自国のヴァナキュラーな音楽を発見し、そこに新しく開発した音素材やメディアを重ね合わせることによってきわめてオリジナルな音楽をつくろうとした。斬新な手法や楽器、機材を用いたこの音楽は、その新しさからしばしば「実験的」と呼ばれている。しかしそれは「実験的」であると同時にまた「民族的」な音楽であった。「実験的」と「民族的」とはかならずしもイコールではないが、このふたつはしばしばおおきく重なりあう。「実験的」ということが、ヨーロッパ、非西洋的なものとたちまち繋がるからである。
この音楽はまた同時に、もうひとつの意味で「民族的」な音楽であった。実験作曲家たちは、多くが白人の移民ないしその子孫であり、祖国の民族的伝統文化を喪失する一方で、彼ら自身の音楽、つまり近代ヨーロッパ音楽に対応するような音楽をいまだ育てるには至っていなかった。この白人作曲家たちはアメリカという国が成熟した二〇世紀になって、自分たち固有の伝統をつくりだす必要に迫られていたのである。それを実現したのが実験音楽であった。つまり実験音楽とは、言いかえるなら、アメリカ白人の「民族音楽」である。この作曲家たちはアメリカという土地で、白人固有の「民族音楽」をつくりだすという壮大な「実験」を行ったと言うこともできるだろう。
−−−−−−『アメリカ実験音楽は民族音楽だった』柿沼敏江 p.235より
ラモーンズが「NYの民族音楽だ」というような台詞と規模が違う話ではあるが、同じ次元の比喩だと夢想することは僕のひそかな愉しみです。
ところで、ホヴァーネスは、確か『そして主は偉大なる鯨を生み給うた』というオーケストラと鯨を共演させたものすごい交響曲を書いた多作な人だったかと思うが、東洋音楽と西洋音楽を統合というか、多元的に用いた音楽を生み出した点は、ハリソンとケージの師匠筋にあたるカウエルと同じだが、カウエルが、内部奏法やクラスターといった音楽の微細な<響き>そのものからのアプローチを一時期とったのとは違って、ウォルト・ホイットマン的といっていいような超人的な観想の中で音楽を夢想してしまうやり方はまさに「超克」ということばが似合っているように思える。ホヴァーネスはアルメニア出身で、この『ヴァクハン・・・』はアルメニア出身者が多かったボストンで作曲されたようだが・・・そういえば、抽象表現主義の画家アーシル・ゴーキーもアルメニア出身でボストンで絵を学んでいなかったか?新しい「民族」芸術を生もうとしていたのは何も音楽家たちだけではなかったろう。
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