みみのまばたき

2006-2013 箕面の音楽・文学好きの記録です。

<雑草と現代美術のあいだ>ロイス&フランツィスカ・ヴァインベルガー

nomrakenta2006-08-28


金沢21世紀美術館 金沢市・ゲント市姉妹都市提携35周年記念「人間は自由なんだから:ゲント現代美術館コレクションより」展
金沢21世紀美術館は、マシュー・バーニーなど、以前からおもしろい企画展が多いようだけど遠くて来れなかった美術館でしたが、今回、アルディッティのコンサートにあわせてやっと来れました。すっきりとしていて居心地良い建築。
で、ちょうど開催していた企画展がこれ。コンサートまでの時間つぶしのつもりでしたが、結構楽しめました。最近、現代美術の動向には全く無頓着で、気になっている作家は今村源さんくらい、という有様。ここまで気楽になったのは、イリヤ・カバコフという作家を知ってからですが。
↓出品作家

①ロイス&フランツィスカ・ヴァインベルガーアーティストのHP
本日一番の発見でした。
普段郊外の道なんかを歩いていて、道端から雑草が侵食してきていたり、コンクリートの割れ目から雑草が逞しく成長してきているさまを見て、「文明は結局自然に還るのだよ」などとはいちいち思いませんが、そんな思考以前のものが何か澱のようにたまっていく気がします。いわばそんな<雑草的感性>とでもいってみたい感覚を、このアーティスト夫妻は、作品とすることで、思いっきり増幅し意識の面前に晒してくれます。

かなりのキャリアのある作家さんのようなのですが、恥ずかしながら、ワタリウムの屋上に作った「エンプティガーデン」というものも知らずなかったので、今回は、新鮮な印象でした。結構ファンになったかも。

会場の説明によると、ロイスは幼い頃、庭の手入れで雑草な駆除をさせられた際、植物を人間の立場からの用・不要で峻別し、間引きすることに違和感を感じたとのことです。「最も有能な庭師は何も手を加えない庭師である」という格言に忠実に、荒地の雑草を多様、植物への分類・管理の不可能性をテーマに人間社会を逆照射する手法が、徹底していて、なおかつ豊か。
たとえば、展示室の真ん中の台に置かれた「庭」という作品は、水を浸したトレーの中に古新聞の束を入れて、野外に放置し雑草の種が入り込むにまかせて培養したものが作品となっています。で、ふと見ると、新聞が日本語なのでははーん現地製作かと思ったら、これは植物を日本に持ち込む場合は、何の植物か特定できなければならない、という規定があるらしく、当然何の種が入り込んでいるか作品の性格上不明であるため、持ち込み不可となったため、こちらで作成したという特別な事情があったようです。このことによて、「植物の移動が国によって管理されている」ことを示すことができるとしてあえて抵抗しなかったとのことですが、こういった規制事態を作品に取り込んだお題目も確かに頷ける部分もありますが、単純に、美的統制の殿堂である美術館の展示室の真ん中で、雑草がニョキニョキと新聞から生えている様は、ある種の痛快さアリ。

雑草の政治化。というよりもともとある政治性をみえるかたちに。
これは確かにアーティストでないとできない仕事です。


<雑草>のアヴァン・ガーデニズムか。こないだの「VOL」創刊号の「唯一可能なアヴァンギャルドは<アヴァンガーデニング>」というハキム・ベイの言葉を想いだしてみたりで、この夫妻の作品は、コンセプトとしては、植物を取り巻く人間社会の規制を目に見えるようにする、ということがあるのでしょうが、むしろこの作家の中で、身近な野蛮である荒地の雑草群と人間社会とが実に風通しよくかよいあっているように思えるのです。最近創刊されたいとうせいこう編集の新感覚園芸雑誌「PLANTED」的な文脈でも評価可能では?
そんな空気が居心地良く、思わず半時間ほど、このアーティストのブースに佇んでいました。

以下はブース内の出展作品です(多々誤解あるかも、です)。

1)ガーデン・アーカイブ(1988-1999)
 雑草の無数のスライドが台に陳列。一つ一つのスライドは雑草だが丁寧に綺麗に撮影されている。なにやら宗教的な雰囲気も。
2)領域(1988-1999)
 雑草の生えた区域のモノクロ写真
3)燃えることと歩くこと 植物を超えるもの/は植物とともに(1992-1997)
1997年ドクメンタX出品の写真。 カッセルの街の割れたアスファルト廃線になった鉄道の路線に、種から蒔かれた雑草のモノクロプリントで、画面には崇高な雰囲気すら漂います。
4)ブランデンブルク門、ベルリン(1994)
 ブランデンブルク門付近の荒地の雑草に水をやるアーティストのモノクロ写真。
5)ベルリン、マルツァーン(1994)
 同じくドクメンタ
6)チコリ(1996)
 湿度計を思わせる脚付の金属の箱の中に、テキスト、植物
7)チョウセンアサガオ(1996)、イヴェント(2002)
 DVD画像日本、プロジェクターで映写。いずれも植物への極端な接写?チョウセンアサガオっていえばダチュラ
ゴリゴリ蠢くフレームがなにやらアンダーグラウンド
8)庭(1997)
 上で詳細解説したものです。
9)ドローイング10点+テキスト作品(1999)
 テクスト作品は、植物の名前から、部分的に文字を消して、他の単語を現出させる、それだけだけど、言語上の植物の生成の恣意性を意識化させようとしているようにも。これはネイティブであるほうがおもしろいのでしょう。
10)フィールドワーク(2002)
 巨大なマインドマップ的線画ドローイング。ここらへん現代美術作家としてちゃんと外さず押さえるところは押さえてらっしゃる印象。
11)ホーム・ブードゥーⅡ(2004)
 自宅庭で付近で採集した怪しげな雑草?を焼いて煙モクモクしている様子の写真連作。


パナマレンコ
イリヤ・カバコフ、アンセルム・キーファー、ヨーゼフ・ボイスと並ぶ巨匠ですね、この人。
飛ぶ夢を無謀に無垢に追い求める姿も、たとえばカバコフであれば、どうしようもなく激しさとして表出するものが、この人の中ではロマンティックなものに変容しているようで、興味深いものですが、他の作品の、本気とユーモアの境界の曖昧さがこの人の本質では?
バスルームにワニがいるインスターレーションが、個人的な妄想ともフィットして印象深かったです。


ヨーゼフ・ボイス→有名な「経済の価値」。日本人作家の掛け軸と共演。流通から切り離されてスチール棚に整然と並べられた缶詰などの食品群が、何やら別の価値へと変貌する・・・というか、なんかすごく臭うんですけど・・・小魚の酢漬けの缶詰とかかなりやばい?
学生時代、評価が絶対的(今もそうでしょうが)だった人でしたが、今は懐疑的になっている自分に気付いてしまった。
ヨーゼフ・ボイスの自己文脈化は過大評価されている。デュシャンの積み上げられた美学的努力は殆ど無視されている。」*1などと、独り言いってみたりして。

マルセル・ブロータース→はじめて知ったフルクサス的グラフィックアーティスト(元詩人)。ヴィジュアルセンス良し(趣味性に回収される恐れも)。
カタリーナ・フリッチュ、アルトゥール・バリオ、ファブリス・イベール、アニカ・ラーソン、マーク・マンダース、
ブルース・ナウマン→モニター二つで、男と女がそれぞれ同じ台詞をしゃべる対比。繰り返されるごとに感情がこもってきてみていて怖くなる。対比と漸次が交差するコンセプトがおもしろい作品。
リュック・タイマンス→個人的に最近ペインティング不感症なのを再確認してしまった(すいません)。

*1:ボイスの有名なパフォーマンスのタイトルをもじってみたんですが・・・(汗)。