みみのまばたき

2006-2013 箕面の音楽・文学好きの記録です。

伶楽舎/武満徹 『秋庭歌一具』

大友良英氏のブログでこの曲の演奏会の模様が紹介されているのを読んで即買ってきました。白状すると武満徹の音楽でこんなに惹き付けられたのは自分にとっては初めての経験です。


よっぽど特殊な環境で育った人でない限り一般の日本人にとって「雅楽」が生活感からは遠い宮廷の伝統音楽であることは残念ながた共通した現状であって、このことに限っていえば、「雅楽」について何か感想を述べる行為は、ひらたくいえばワールドミュージックについてのそれと何ら変わることはないのではないかと思います。
少なくともブルーハーツの歌で心を熱くしていたものとしては、武満徹の音楽ですら、現代国語の教科書で優れた文章家という側面には接していたにせよ、馴染みは薄いがすでに権威付けられているらしい『異文化』だったことを否定する気はありません。


武満徹が「雅楽」に出会ったとき、「音が垂直に立ちのぼる」ようなさまに深い感銘を覚えたエピソードは「音、沈黙と測りあえるほどに」にも収められており有名なのではないかと思いますが、ドビュッシー的なエキゾティシズムを自国の文化にも振り向けざるを得なかった現代音楽家の率直な感想としてよりは、むしろ現在自国の伝統音楽とされていながら、個人として未知な音楽に対する新鮮な感覚として馴染むものだったのかもしれません。
70年代には、名指しはされないまでも、高橋悠治によって「内向きには、最新の潮流をたくみに拝借強調し、外向きには輸出用の日本美学を切り売りする」という意味の批判をされましたが、その批判そのものの妥当性はともかく、別問題として作品の内実そのものが検討されないわけにはいかない筈です。余計なことかもしれませんが。


この『秋庭歌一具』は、その名の通り、秋の色彩に彩られた庭の情景を想起させずにおられない穏やかで深い情感を湛えた組曲で、『ノヴェンバー・ステップス』ほど険しい響きはありません。しかし、寂漠とした音像(しかし沈黙してしまうわけではない)の中を、複数の龍笛や、篳篥(ひちりき)、笙の音色が有機的に立ち昇りながら一つの情景に添い遂げようとするさまは、ある種ロマンティックとすら言えます。このような絶妙なリリシズムを現出させる伶楽舎の技術力そして演奏に対する集中力が並外れたものであることはド素人の私にも容易に伝わります。この情景の中では鼓の打音ですらメロディアスな「流れ」の余韻として鳴るようです。武満徹はそれを「ししゅうする」と形容します。

「優れた建築は概念的であり、優れた絵画は抽象的であり、優れた音楽は絵画的である」という芸術の循環論を思い出させもするこの組曲は、武満徹が達成した音楽世界を明瞭に示しているのだと思いたいものです。

ジョン・ケージは、音を音そのものとして(先験的にアナーキーな存在として)捉え、その「うつわ」を消失ギリギリの形で提示することに長けていたと思いますが、武満徹にとっては、音は音のそのものでもありますが、イマジネイティブでロマンティックな言葉を内包し喚起もするものとして生起します。

このあたりが日本人の体質なのかもしれません。ここには永く静かで大きな呼吸をする一本の途切れないメロディーがあるように思えます。