みみのまばたき

2006-2013 箕面の音楽・文学好きの記録です。

リュック・フェラーリ関連

横浜で大盛況だったという『Edge ―スタジオ・マラパルテによる映画史』のプログラムの一部で、先年亡くなったフランスの現代音楽作曲家リュック・フェラーリ関連の映画2本と、『リュック・フェラーリと ほとんど何もない』の訳者である椎名亮輔氏*1の講演を、先日ウカマウ集団をやっていた「シネ・ヌーヴォ」で観て来ました。
当日のプログラムは以下の通り(シネ・ヌーヴォさんのHPより転載させていただきました)
リュック・フェラーリ―ある抽象的リアリストの肖像』
『ほとんど何もない―リュック・フェラーリと共に』
リュック・フェラーリと ほとんど何もない』出版記念講演
椎名亮輔(音楽美学)
日本では殆ど知られていませんでしたが、ジム・オルークなどが熱心にリスペクトしたことで近年知名度があがってきたミュージック・コンクレートの作曲家、というイメージがありました。
あと、とにかくマネキンに囲まれていて、音楽にもエロティックな要素が濃いとか。かなりいい加減なイメージしかありませんでした。
リュック・フェラーリ―ある抽象的リアリストの肖像』
まず、大友良英さんなども作成に関わられた様子の殆どフェラーリ最後の日々をとらえたドキュメンタリー。
会場は、8時半からのレイトショーにも関わらずほぼ満員。そして・・・プロジェクターの故障で20分送れて上映開始。
車なので全然関係ありませんでしたが、本当に申し訳なさそうだった映画館の方が逆にちょっと気の毒だった(しかも帰りにお詫びの割引券まで頂きました)。
冒頭のフェラーリの専用スタジオ*2での即興だけで、言葉を失ってしまいました。たぶん「ありがとう」という言葉(違ってたらすいません、そう聴こえてしょうがなかった)が加工・反復されつつノイジーなのに幽玄に電子音と絡み合う。
演奏には、「高原」(プラトー)とでも言いたくなりそうな、持続するクライマックスが確かに存在し、終わり際は、あたかも突風が微風になりやがて消えるように、極めて自然に終息する。
終わってから奥さんに「アドリブどうだった?低音がよかったろ?」ときくあたりなんかほんとさりげなくかっこいい。
自宅の夕食シーンでは、『リュック・フェラーリと ほとんど何もない』の著者ジャクリーヌ・コーも写ってました。
最後はERIK Mとのコラボレーション。これがまたかっこいい。深海で2匹の長大でメタリックな生物が、交感しあい、うねりながら一体になろうとしているような音像。冒頭のフェラーリの即興はこのデュオの準備だったのかも。
コレCD欲しいなあ・・・*3

『ほとんど何もない―リュック・フェラーリと共に』
リュック・フェラーリと ほとんど何もない』出版記念講演
ジャクリーヌ・コーによる著作のドキュメンタリー。続けて講演。
DVカムだけどモノクロのため画質は気にならない。
それよりも字幕がなくてフランス語がわからないからくやしいが、演奏シーンなど豊富で興味深かったです。
でっかい反響版につないだ発信機(みたいなもの)を助手(?なにしろ字幕なしなので人間関係がわからないっす)といじりたおすフェラーリはいい歳の取り方をしたかわいいノイズ好きのおじいさんでした。
講演では、モーツァルトとケージ、どちらに近い?という設定からお話が展開。
結論的には、コンテクストと物語性を手放すことはなかったという点で、モーツァルトに近いということでしたが、話は、特異なヒューモア、ずらし、物語性、映画性などにも及びました。
アヴァンギャルドな出自からポップなフィールド(映画、ラジオ)に取り組んでいったのは、フェラーリの作家性というよりも、時代の流れに従うことに苦痛よりもむしろ快感をかんじていた性分なのでは、という感じがしました。そして具体的な素材に対する物語性の発見し、編集していく手腕・美意識こそがフェラーリの本質なのでは、と。
「ほとんど何もない」、とはうそぶくけれど、フェラーリには確固たる芸術文化、フランスのライフスタイルの美意識が大前提としてある。
その中での演劇的な身振りとしてジョン・ケージ的な美学も含まれてしまう。
ピカソデュシャンの間で豊穣な仕事をしたラウシェンバーグティンゲリーのように。そんな気がしました。
そういう意味で、「抽象的リアリスト」もわかるけれど、<具体>的イマジストという言葉が浮かんでしょうがありませんでした。

*1:椎名亮輔--私がこの種音楽に興味を持ったきっかけとなった、マイケル・ナイマンの「実験音楽 ケージとその後」の訳者でもあります

*2:マネキンが置かれていたりしてこのスタジオがまたかっこいいのです。

*3:CDあるけど限定盤のよう