みみのまばたき

2006-2013 箕面の音楽・文学好きの記録です。

杉村昌昭『分裂共生論』

フェリックス・ガタリの著作の日本での翻訳を多数手がけてきた第一の紹介者による最新の論文集。ふいに「千のプラトー」をちゃんと読みたくなって、最近ガタリ側から読んでいけそうな気がしている、とは前に書いていて、その流れ。
紹介者によるガタリの解説書に留まらず、より独自の展開があって、新自由主義的「グローバリゼーション」だけでなく、たとえばわが国の敗戦後論 (ちくま文庫)にすらみられるような「国民国家」の『統一原理(or統一への期待)』が、段階的に「他者との共存・共生」を否定する性格を持っていることを警告し、ガタリの「分子革命」や「三つのエコロジー」、「カオスモーズ」の理論(というか直感的イメージ?)を踏まえたうえで個人から国家まで様々なレヴェルの主体観の『分裂』状態を肯定*1したうえで共生を目指す、というのがおおまかな論旨だと思う。
平井玄氏との対談もあり、その中での平井氏のガタリの「リトルネロ*2に関する指摘がおもしろい。

ポエジーという面ではネグリよりガタリの方がポエティックです。もちろんこれは良い意味で。たとえば、分子的主体というものを考えたときに、「リトルネロ」という言葉が何度も出てくる。(中略)リトルネロ自体は西洋音楽の用語なのですが、ガタリの頭の中にあったイメージはどちらかと言うとジャズ*3のアドリブみたいなようなものであり、それこそ情動や主体感の伝染・感染・感応に近いものではないかと。おそらく分子革命というイメージは鼻歌が巨大な革命歌につながっていくイメージではないかと思う。  (前掲書p.86-p.87)

もちろん、この後、杉村氏は「平井さんの独創だけど、当たるとも遠からず」と返しているし、本書では一番「キャッチー」な部分でもある。「鼻歌が巨大な革命歌につながる」なんていうイメージはまさに、僕がロックやその他の色んな変な音楽の中で聴き取りたいと思ってきた、そのまんまなイメージだ。
というわけで、次回は「プラトー」の「リトルネロ」の章だけ先に読んでみることに決定。

*1:もちろん「分裂」の既成イメージから脱却することが大前提と思われます。その前・前段階として参考になりそうなのは、かなり古いけど、春日武彦 著の「ロマンティックな狂気は存在するか (新潮OH!文庫)」。

*2:千のプラトー」にも一章が割かれる重要概念で、どうも断片的な音楽モデルである様子

*3:直前のチャーリー・パーカーの短いリフへの言及に関連(引用者注)