みみのまばたき

2006-2013 箕面の音楽・文学好きの記録です。

ノイズに中に解体する「隠喩としての病」:青山真治監督「エリ・エリ・レマ・サバクタニ」

nomrakenta2006-02-04

テアトル梅田で封切り日に観て来ました(写真はパンフレット)。
近未来(西暦2015年)、「レミング病」という人を自殺に駆り立てる病が蔓延している中、病におかされた孫娘(宮崎あおい)を救いたい老大富豪(筒井康隆)は、ある二人組(浅野忠信+中原昌也)の演奏する「音」が、ウイルスの活動を止める効果があると知り・・・
物語の筋はパブリシティ通りでそれ以上複雑なプロットというのはない。二人組の出す「音」とは、音楽業界で、いわゆる「ノイズ」(ジャパノイズ、と懐かしく特定してみても良い)と括られうるもので、物語の外にある現実的な「その種の音楽」の立ち位置とそれなりにリンクしてもいることは、映画中の「あの、やかましいの」というような台詞からも想像できるので、製作者の特別な思い入れを認めても間違いではない筈*1
音楽カルチャー的な視点はさておき物語の重要なポイントは、その「ノイズ」で完全にウイルスが駆逐されるのではなく、むしろその逆で、「ノイズ」がウイルスにとって過度な栄養であるため、摂取後休眠状態になってしまうのだという点。この事実を告げたアスハラ(中原)がいきなり物語から退場してしまうこともあり、この設定が、少女が一度は回復したものの再度「ノイズ」を浴びるか否かは、彼女の「生きる意志」にかかってくるのだ、という伏線にもなるし、単なるハッピーエンドに終わらない問いかけとなって効いてくるのだ。ひたすら受動的な救済や商品化された「癒し」よりも、治癒への意志を果たして持てるのかどうかなのだ、という辺りがこの作品のメッセージになるのだろう。「健常」であった筈の探偵(戸田昌宏)が、最後に自ら命を絶ってしまうのも、その意味で「ノイズ」が「隠喩としての病」*2を解体してしまい、根本の生への意志を露出させてしまったためだ。
ロケ地の選択もこの映画に重大な作用を及ぼしている。ミズイとアスハラの未知なるノイズを求める共同生活を際立たせているのは、北海道というゆったりとした北のトポスである。美しい大草原の真ん中で、大地の精霊のように響き渡りこだまする轟音の即興演奏(実際は、入念なバックトラックに浅野忠信自身がギター即興を重ねている)は、映画のハイライトであり、きっと後々まで語られる名場面ではないだろうか。
個人的には、冒頭からの「音集め」や、手製のノイズ発生オブジェ*3等のこまごまとした断片が、自分が「ノイズ」や「即興音楽」、ジョン・ケージ等の「実験音楽」に寄せてきた「音」の発生自体への新鮮なファンタジーを象徴していた。青山真治という監督によって初めてノイズ音楽に、小説作法でいう「ライト・プレイス(適切な設定)とライト・ワード(適切な描写)」*4が与えられたのかもしれない、と思うと、けっして遅すぎるということはない、とても重要な映画だと思えた。

*1:もちろんそんな思い入れ無しでも関係なく楽しめる。浅野忠信は相変わらずだし、映画初出演の中原昌也は立派に存在感があるし、なによりも宮崎あおいの瞳は繊細すぎて危険である

*2:スーザン・ソンタグに同名の著書「隠喩としての病い」がある。この映画で扱われているのが実際の「病」ではなく、「隠喩として使われた病」であることは再度確認しておいた方がいいのだと思う。

*3:洗濯機のゴムパイプを扇風機のモーターで旋回させるもので上記の演奏シーンでも重要なアイテムとなる。

*4:たしか、村上春樹村上龍の対談「ウォーク・ドント・ラン―村上龍vs村上春樹」での、村上春樹のコメントだったと思う