みみのまばたき

2006-2013 箕面の音楽・文学好きの記録です。

ジョナサン・リッチマン

オリンピック、決まったんですねえ…。
2020年。私は果たしてどこで見ることになるのかね。

ええ、そりゃ好きですとも。

Jonathan Richman - Girlfriend / Roadrunner
これはいい。ラモーンズのジョーイのバースデイ・パーティで、モダン・ラヴァースのアーニー・ブルックスと「ガールフレンド」と「ロードランナー」。
ロードランナー」は、やっぱりジョナサンの声質じゃないとダメだ。ジョニー・ロットンやジョーン・ジェットでは悪いけども曲の良さの半分にも至っていなかった。


Jonathan Richman - Velvet Underground

フェンダーベースから妙な音♪/
ニューヨーク流儀の謎バンド/
なんだってあんな音だすんだろう?/
だってヴェルヴェット・アンダーグランド♪


The Modern Lovers - Road Runner(45rpm)
上のライブを見てからあらためて聴いてみると、アコギの音とひずんだアンプの音を絶妙にブレンドしたのがこの曲のアイディアだったのかなと思う。ジョナサン・リッチマンという人は、モダンワールドが好きなんだといいながら昔のテイストも絶対に手放さないと宣言してから歌いはじめた人なのだった。

どんどん速度をあげて/
停留所もどんどんとばして/
ラジオをかけながら/
マサチューセッツに/
凍るようななかのネオンに/
そして、夜遅くのハイウェイに恋してる/
ラジオをつけるよ/
ロードランナーみたいに♪

大昔(前世紀)に、大晦日から年が変わる瞬間に、車に乗りながら、この曲をかけた記憶がある。浸りきってたな。

ジョン・ゾーン


John Zorn - Book of Angels - Marciac 2012 (Full Show)
 寝不足がかなりきていたのだけれど、晩飯のあと、約一時間のこの映像を見始めると、最後までまったく飽きがこなかった。
 ジョン・ゾーンが最近どんなリリースをしているのかつぶさに追っているわけではないので、マサダの後に続いているこの「Book of Angels」シリーズが、天使の書といいながらアルバムタイトルが全部悪魔さんの名前であるとか、「Masada Book Two」という位置づけになっている事とか、最新作(20作目!)がパット・メセニー(!)によるゾーン作の演奏である事など、諸々今日初めて知った。
 この映像は去年の夏のフランスでの、「Book of Angels」からの複数のユニットの演奏のようだが、最初のグループでのShanir Blumenkranzのsintirの演奏から引き込まれてしまった。
 続くゾーンを加えたトリオで、ドラムとコントラバスに乗ってサックスを吹き始めたゾーンが自分の膝を使って絶妙なミュートをかましてくれる。あらためてゾーンのサックスの音色が、やはり得難いものだなと再確認。どういう風にかというと、自分にとってサックス奏者としてのゾーンは、オーネットの一番良質な部分を引き継いだ人だとひそかに思っている(んです)。この夏一番興奮したジョン・ブッチャーの凄さとはまた全然違うのだけれども。
 トリオの呼吸をコントロールする絶妙さ。加えて、最後のフル・メンバーによる即興を組み立てて指揮していく姿の堂々たるもの。ゾーンの仕草に応えてそのミュージシャンがそのとき一番の音を即座に投げ返えす。優れた音楽家たちの快感の連鎖がそこにあるのだろうな、という気がしてくる。即興とアンサンブルが往来しながら、メンバーが実に楽しそうに指揮するゾーンを信頼しきって「音楽」を委ねている。
 膨大で多岐にわたるディスコグラフィーをいちから追っていくのはもはや常人リスナーには不可能なのではなんじゃないかとも思うけれど、飛び石的に聴いている自分のような怠けリスナーの耳にも、不思議とゾーンはぶれていない。量が質と、ちゃんと共鳴している。レーベル「TZADIK」が存在し続けてくれていることで、いったいどれだけ多くの優れた音楽家を知ることができたろうか。
 ジョン・ゾーンは、いろんな意味や角度から、今からはじめる後世で評価されていく音楽家だと思う。


そして、当然のように今年の夏も、凄い。

John Zorn - Zorn@60 / Warsaw Summer Jazz Days 2013 SONG PROJECT
いきなりマイク・パットン、マーク・リーボウ、ジョーイ・バロン従えて…かっこええ。最強の60歳やな。

驚嘆のSOFA勢など

8月の第4週は、濃密なライブが続きました。

8月24日(土)Kim Myhr/Streifenjunko/Sofia Jernberg@中崎町モンカフェ
 オープニング・アクトは高岡大祐さん(Tuba)。ホスト役も務めておられた。
 ノルウェーのSOFA勢は、最上級の音楽・素晴らしい多様性を聴かせてくれた。
Kim Myhr(12 strings acoustic guitar)
 2年ほど前ヌオーがまだあったころに、SOFA勢のひとりがKim Myhrだった。最初みたとき、ギタープレイのミニマルさにやっぱりちょっと吃驚した。今回二回目だけど、今回は12弦ギターの音の奔流に陶然とした。およそ12弦ギターから発する音で聴きたい音のすべてがKimのギターから聴こえてきた。
彼のサイトによると、http://www.kimmyhr.com/もうすぐ初のソロ作品がリリースされるとのこと。楽しみだ!!
Streifenjunko:Espen Reinertsen(reeds)Eivind L�・nning (trumpet)
 お二人の真ん前に座って聴くことができましたが、頭を数センチ傾けるだけで、音の位相はまるで違って聴こえてきた。そして、どの位置・どの角度で聴こうとも、繊細で芳醇な響きを二人の演奏、二人の楽器の干渉は持っていた。

 会場で5000円が2000円になっていたアルバム『Sval Torv』も、アナログ二枚組ですが、乾上がりかけの魚が水中に飛び込んだかのようにぐいぐい聴けてしまいます。
Sofia Jernberg(voice)
 エチオピア系のソフィア。高岡さんが激推するのもわかる女性ヴォイス・パフォーマー。フリージャズでよくいる女性のヴォイスは、素っ頓狂で苦手な人が僕には多いのですが、ソフィアさんはそれらとはまったく異なっていた。また、狭義の「フリージャズ」や「インプロ」の美学とも離れていると感じた。声・うた、といってもソフィアさんのヴォイス・パフォーマンスは、声というのが喉と舌によってのみならず頭蓋骨ひいては全身を共鳴させて発音しているものだということをあらためて(いや、はじめてか?)思知らせてくれるものでした。

 ライブ後、Sさん・Gさんと「にしかわや」で、終電間際まで串カツで一杯。SさんもGさんもTwitter経由で知り合って、ライブで声を僕からお声かけた方たち。今みた聴いたばかりの凄い音楽について、感想を誰かに話せるのはとても楽しい。箕面線の終電一本手前で帰る。Sさんは勝尾寺におつとめのお坊さんなので終点まで一緒に帰る。自分より「うえ」に住んでいる人には初めてお会いする…。

***
8月25日(日)
昼過ぎより、北堀江のFuturoで、T.坂口氏の『スローなカセット魂 カフェ編』
以下のような貴重音源のカセットをかけつつ坂口さんのお話し。お客は少なかったが…。
・アンドリューチョーク六つの花
・プトーズ(Ptôse)。1986に活動休止したフランスのビザールな実験ポップトリオ。

ヴァイナル・オン・デマンドでリイシューされたりした。「プトーズ」自体は「垂れたもの」という意味。チンパンジーでもわかる音楽。 ユニット名の曲と、ハエの王様(というよりせみの王様 トイポップのメンツによるカバー 最初はパンクからテクノポップに。
ブーレーという曲のテクノバージョン国連総会コンピ 影を食べる人。
パートナーのエリカによる「猫のゆりかご」、クラスターから影響を受けた曲 ハーフジャパニーズによるカバーかっこいい! 阿部怪異、ほぶらきん
・ディフォーム 国連総会コンピから
・ピナコテカ 佐藤氏のピアノ〓リングモジュレータ演奏。
・ピナコテカ・カセット ジョンダンカンの貴方が完結させる音楽。短波ラジオの音。トムシッション。
・AUBE。オイルオンザウォーター ・ソルマニア大野自宅録音期さんのソロ  ・なしくずしの共和国
・オーディオアーツ・カセットから、AMMのジョン・ティルベリーのピアノ、同じくAMM絡みのクリストファー・ホブスの「Aran 」という曲。この「Aran」は、イーノのオブスキュア盤にも別バージョンが収録されている。また、この「Aran」を聴いて失語症が治ったという女性の歌をオーバーダブしたバージョンを大熊亘さんが提供している。女性は外国人?らしかった。
 
・最後に坂口さんがかけてくれたのが、僕自身2011年4月、3.11震災直後に芦屋山村サロンでひらかれた復興支援チャリティ・コンサートで観た「Veltz」の演奏のテープだった。あのコンサートの主宰をしておられたのが坂口さんなのだから不思議ではないわけだった。生で聴いたときも深い衝撃を受けたけれど、もういちどテープでかけてくださったのを聴くと、やはり、凄い演奏だった。スピードを落とした室内楽のよな導入部。そこにピチピチ泡立つように絡んでいくノイズ。くぐもった音質がたまらない。次第に眠ってた首長流が背中をゆっくりと起こすように、ハーシュなノイズが立ち上がり、深海をさぐるよなピアノへと。耳をつんざくメタルノイズへ。これらが一つの大きな覚醒のなかでミックスされている・・・。なんと、この音源がマスタリングされてリリースされる予定とのこと。
**
夜から同じくFuturoで、「Plays Standard」江崎將史 trumpet×高岡大祐 tuba@北堀江Futuro
というわけで、この日はほぼ一日Futuroにいたことになります。
ここ何度か高岡さんと江崎さんのデュオを観させていただいています。最初にデュオを聴かせていただいたのは、神戸元町の「のらまる食堂」の二階だったとおもう。そのときから継続して丁々発止な興演奏が主体だった。
今回「Plays Standard」(高岡大祐・船戸博史・登敬三の編成でのトリオ名)という嬉しい名前が使用されたのは、今回のセッションが以前からやってみようという話になっていた試みで、それは「メロディー」を演奏する、という事だったようす。この日は、17世紀のヨーロッパ舞曲、モンク、シドニー・ベシェ、クルト・ワイルの曲などが取り上げられていました。普段、一瞬先を決めつけない即興演奏を積み重ねているミュージシャンが寄り添うものとして「メロディー」を得たら、どうなるのか?メロディーの聴こえかたが、やはりほかとは異なっている、違う感覚があるとしか今の僕には書けません。

フェリックス・ガタリのインナーマッスル :山森 裕毅 『スキゾ分析とリトルネロ』を読む


 ここ数年、ジル・ドゥルーズとフェリックス・ガタリの二人に関しては『ドゥルーズガタリの現在』『交差的評伝』が翻訳出版されたり、特にガタリに関しては『アンチ・オイディプス草稿』や『精神病院と社会のはざまで』が翻訳されたりして、文献の数もドゥルーズに物量的に追いついていく傾向がある(続いて欲しいとおもう、個人的に、最後に述べるような理由で)。

 学会の事情などは知る由もない自分が出版状況だけをみても、日本語になったガタリの読者というのが少なからずいるのだなと思わせてくれる。書かれるものの内容も、80年代のブーム的なものから、ドゥルーズガタリを確実に知的インフラとして構築していく地道なものになってきています。





特に、大阪大学の山森裕毅さんは、ブログで「ガタリ・トレーニング」という(今はもう閉じられてしまったけれど)、今日紹介する論文に結実していくようなコンテンツを継続して積み重ねておられるのを継続して読ませていただくことが数年あって、ひとつひとつ結論があるような形態ではなかったけれど「本当にガタリは何を書いたのか」を真正面から腑分けしていく態度がとても新鮮だったし、これは後々何らかのかたちになるべきものだ、とも独り興奮していました。



 『スキゾ分析とリトルネロは、この6月に、人文書院から出版された、山森裕毅さんの著書『 ジル・ドゥルーズの哲学: 超越論的経験論の生成と構造』の後半におさめられた論文です。

 著者である山森さんにお許しをいただいて、こちらのガタリ論から読み始めた。
 (そして感想をまとめようとしたこの文章、こんなレベルでも、ちゃんとまとめるのに、本をお送りいただいてから数ヶ月かかってしまいました…。)



 本の献呈を頂いてしまったのは人生はじめての経験(そして多分最後の、)で、そのうれしさが、読み進める楽しみを昂進させていたのは確かなことですが、それを差し引いても、一読者の感想として、この論文を読めば、ガタリを読みあぐねていたりする読者は何らかの「碇」のようなものを受け取れるんじゃないかと思います。
 山森さんの論の進め方がまず、自分にはとても好ましい。「もっといえば、」「さらにいえば、」のあとに、非常に明快な腑分けが入るのである。まったく逃げない。読者を逸らさない。見習いたい。


 また、『現代思想』6月号にも、この補論についての補論が掲載されています。

現代思想 2013年6月号 特集=フェリックス・ガタリ

現代思想 2013年6月号 特集=フェリックス・ガタリ


 論中、フェリックス・ガタリの『機械状無意識』までの著作の中で「リトルネロ」がどのような文脈で使用されている概念なのか、について前提となる「スキゾ分析」を踏まえながら論が進められています。

 特に、論文後半リトルネロガタリプルーストの小説にどんなリトルネロを見出したか)いたるまでのスキゾ分析での複雑怪奇に錯綜する用語・思考・文脈の整理が、非常に有難かった。

 リトルネロはいうまでもなくドゥルーズガタリ千のプラトー』にでてくる重要なキー概念ですが、正確に理解するのはこれまで至難の業、だったと思う。個人的に恥ずかしいのはリトルネロを音楽的な「リフレイン」の延長上の概念だと思い込んでいたことです。でも、リトルネロを、暗闇で子供が口ずさむ歌とかプランテーションで酷使される労働者たちの歌とかリフの最小単位とかとだけ考えていても理解が進んだ気にはならない。率直な読後感として、この論文を読めば、少なくとも入り口で誤解は避けていけるのものになっているんじゃないか。
 ***

 そこでリトルネロについてですが、これは先に『現代思想』の補論でもはっきりと述べられているのですが、通過成分ということになるらしい。
 リトルネロは通過成分であり、問題は、通過成分とは何なのか。
 以下は、ガタリの『機械状無意識』中のリトルネロ部分を抽出して、山森さんが説明を加えているところ。

 ガタリは鳥の巣作りと求愛の関係を木の枝の記号論で説明している。そこでは、巣作りに利用される木の枝が、メスに求愛するための指標になる。つまり表現の素材として木の枝を見た場合、それは巣(つまりテリトリー)を表現する物から、求愛を表現する物へと変化しており、テリトリー形成のアジャンスマンから求愛へのアジャンスマンへの移行を媒介しているのである。
---P.311 山森 裕毅 『スキゾ分析とリトルネロ』:『ジル・ドゥルーズの哲学: 超越論的経験論の生成と構造』収録(人文書院

 乱暴にいうと、ここでの木の枝が通過成分であり、リトルネロということになる。何を通過するのか?というと、テリトリーのジャンルと求愛という別のジャンルの間を、であり、複数の異なる状況に架橋したもの、あるいはひとつの状況から別の状況への移行を促すことができるもの、同一の素材が複数の異なるコンテクストで別の用途でもって有用である場合、その素材は通過成分である、と考えてもいいんじゃないかと。
 機械状につらなる全シーンを繋ぐ「蝶番機械」が通過成分=リトルネロ、とでもかんがえておこうか。
 僕のたとえでは、まだまだわかりにくいのだけれど。

 **
 本書は、他にも、ガタリ概念について解きほぐしてくれるような示唆に富んでいます。
 以下、引用列記させていただきます。

(1)たとえば、チョムスキーとの関連。

 『機械状無意識』においてガタリは、自身の概念群のいくつかを生成文法理論を参照しながら作っている。例えばガタリは「抽象機械」という概念を普遍文法と比較する仕方で論じている。どういうことかというと、あらゆる個別言語のもとになる普遍文法は、見方を換えればあらゆる個別言語から抽象された文法を意味する。そして普遍文法はあらゆる個別文法の起源とされる。それに対してガタリのいう抽象機械はあらゆる具体的機械から抽象(抽出)されたものではあるが、決してそれらの起源ではない。起源ではなく、ある具体的機械から別の具体的機械へ(他にも、あるアジャンスマンから別のアジャンスマンへ)変化するための理論上の中継器や変換器として考えられているのである。要するに具体的なものの変遷の間にある抽象的な「媒介」であって、そのため抽象機械は「深層」にある「普遍的なもの」からの「樹枝状の発生・派生」という考え方を必要としない。
---P.282 山森 裕毅 『スキゾ分析とリトルネロ』同書

 ガタリの思考の重心が「変形」にあることがわかる。これを一種の記号過程の研究と見なすことができる。こうした思考傾向から考案されるのが「抽象機械」であり、「スキゾ分析」であり、「地図作成法」であり、「リトルネロ」である。ガタリの重要概念からは「変形」や「過程」を捉えるための強い意志と試行錯誤を見てとることができる。こうしたガタリの思考傾向は、変形に対して生成を重視するチョムスキーのそれと正反対のものといえる。
---P.291 山森 裕毅 『スキゾ分析とリトルネロ』同書

 この思考の焦点がわかっていなければ、すべての用語が宙に浮くのだと気づいたときの、読者としての興奮。

(2)また、言語や記号についても。

 機械は記号との関係で作動するものである。ここでの記号とは語用論における記号のことである。
---P.286 山森 裕毅 『スキゾ分析とリトルネロ』同書

 非常に重要なセンテンスだとおもう。
 なによりもガタリ概念は拡張された語用論に、精神分析や政治をぶちこんだものらしいのだ(焦り過ぎか)。

 ガタリの関心は、無意識や言語、記号に具体的な政治的、社会的、経済的、科学技術的諸領域を認めることである。言い換えれば、無意識がどのような構造をしているかではなく、どのような環境のもとで作動しているかを、言語や記号との関係で捉えたいのである。
---P.284 山森 裕毅 『スキゾ分析とリトルネロ』同書)

 山森さんは、ガタリ記号論が、ドゥルーズのそれよりもはるかに複雑であり(ドゥルーズが素朴に思えるほどに、と山森さんは書く)、静的なものではなく、語用論(pragmatics)である、とも書いている。
 ガタリの特徴的なところだと思ったのは、この語用論の対象が、通常の発話・言表行為にとどまらず、態度・行為・状態、それらを包括したものとして現れ得る「症状」にも適用されるという点。

 繰り返しになってしまうけれども、精神分析を語用論の中に放り込んで思考実験プログラムとして鍛え直そうとしたのが、ガタリのスキゾ分析だ、ということではないかと。「スキゾ(分裂)」というタームに惑わされるのはもっと後で好きなだけやれば良い。ここまでくると、80年代の「スキゾ万歳」な持ち上げ方がいかに…いえ、やめておきます。



(3)ガタリ独特の用語「機械状」の位置。

 ガタリは、すべてはあらかじめ決定されているという発想や、重々しい過去(記憶)が現在を規定し、その現在が未来を制限してしまっているという考えを批判する。その代わり、後から起こることが前に起こったことを修正すること、つまり未来が過去を修正することを肯定する。過去が未来を規定することもあれば、未来が過去を修正することもありうるのである。こうした相互作用をガタリは「機械状」と形容するのである。
---P.285 山森 裕毅 『スキゾ分析とリトルネロ』同書

 ここは、ガタリサルトルから受け取って自分の血肉にした仁義なのだと感じた。もうひとつ。作家・安部公房と同じモチーフを共有していたのように思えてならなかった。たとえば、『第四間氷期』や『榎本武揚』で反復される過去・現在・未来を誰が語るのか/語れるのか、というテーマ。

(4)「地図」について。地図は、いわゆる(僕の苦手な)「アジャンスマン」と関わる。

 この地図作成の作業の最も重要な点は、図表化された変形過程を操作し、地図を修正することを可能にすることである。ドゥルーズ=ガタリ研究でしばしば使われる「逃走線」という用語も、こうした地図作成と関連させれば理解しやすいだろう。
こうした地図作成法に関するガタリによる注意は、「普遍的な地図作成法は存在しない」、「あらゆる語用論的[スキゾ分析]地図の一般地図を描くことも望みえない」というものである。いつでも、どこでも、誰にでも適用可能な地図作成法はない。つまり、地図作成はその度ごとにひとつの「実験」といえる。
---P.305 山森 裕毅 『スキゾ分析とリトルネロ』同書

 たとえば、ガタリは記憶を信用しない。記憶は、規制にならされた現在から過去を再編集する行為と同義だから。
 同様におそらく記録も信用しないだろう。記録を編集するもの(つまり、取捨選択するもの)が飼いならされていない可能性は低いという理由で。
 そのかわりに、現在に踏みとどまって変形へと至らせるために「地図作成」を実行する。ガタリが決然と仁義を切っている部分だとおもう。

 スキゾ分析的アジャンスマンが、以前から存在するアジャンスマンを対象とするのか、そこから新しいアジャンスマンを創造しようとしているのかによって、その働きを前に私たちが述べた生成語用論か、あるいは変形語用論に結びつけることができる。
---P.306 ガタリによる[機械状無意識]内の原文引用 山森 裕毅 『スキゾ分析とリトルネロ』同書

(5)冗長性という用語についての解説まるごと

 冗長性とは、余分なものや余計なものを意味する言葉である。情報理論においては言語が持つメッセージ以外の要素を意味する。もっといえば、必要最小限のメッセージに付加される余分な情報のことであり、メッセージの伝達を安定化させる働きを持つ。「冗長性が高い」というと無駄な情報が多いことを意味するが、その反面、情報の一部が破損しても、メッセージの伝達を損なうことが少ない(欠損したメッセージの予測が可能になる)ということである。ガタリの文脈では、その意味を解釈されるシニフィアン以外の記号(精神分析記号学にとっては余計なもの)を指すと考えられる。ガタリは顔貌性やリトルネロを冗長性に属する記号として捉えており、この余計なものが精神に及ぼす記号論的な効果を探求していく。
---P.286 山森 裕毅 『スキゾ分析とリトルネロ』同書

 ここを読んだとき、自分のなかで『倍音』のことが木霊するようだった。
 

倍音 音・ことば・身体の文化誌

倍音 音・ことば・身体の文化誌

 冗長性と倍音が似ているのではないかという予感。また今度考えてみよう。

(6)

 ガタリは、ある子供の「学校で割り算ができない」という事態を学校権力による抑圧の結果としては捉えない。そうではなく、「論理的ディスクールの拒否」という子供による学校権力への抵抗戦略として捉えるのである。この子供は割り算を拒否するという仕方で、自分を取り囲む状況(アジャンスマン)を自身で組織化し、包括しようとする。〜(中略)〜スキゾ分析の焦点のひとつは「記号や言語の運用の主導権がどのように争われているか」であるといえるのではないだろうか。
---P.296 山森 裕毅 『スキゾ分析とリトルネロ』同書

 ガタリにとっては、記号や言語の運用が思考の最終目的地ではない(勿論それを分析する段階は必要)、それらの主導権がどのように誰によって争われているのか?にまで思い至らなければ片手落ちも甚だしいのである。
 ガタリにおいて「症状」は、意識・無意識に関わらず主体の発話行為に等しいものと捉えられているらしい。ひとつの概念を別の広い次元に置く「発想」というより「思考のインナーマッスル」だ。
 晩年に、エコロジーにも三つある(環境の、社会の、そして精神の、)としたガタリ思想の始まりとしてもなんとなく腑に落ちる話でもある。


Félix Guattari - Université de Vincennes 1975

 *
 ここで論文の流れを追うのは中断して、もっとミクロかつ自分に落とし込んだ捉え方がどれくらい出来るものなのか、について考えてみたい。
 といっても、すぐにリトルネロだとか機械だとかの用語が仕事環境で使用されるわけではもちろん、ない。

 仕事柄、オペレーターをコーチングする時に、マインドマップの欠片のようなものをオペレーターと一緒に作ってみることがある。明解な答えがありそれを伝えられるケースではなくて、彼/彼女が煮詰まってしまっていて業務のなかでどうやって課題を見出していけばいいかわからないときに限った話だけれど。
 簡単にいえばメモレベルの図式化だ。これが上で引用紹介してきたようなガタリの地図作成と直接関わる話なのかというと、とてもそんな話ではないと自分でも分かっているけれど、もうちょっとおつきあいください。
 このとき指導というよりも、二人で問題を共有しあうことを最初に目標とする。決して、ああしろこうしろ、という流れにはしないことになっている。自発的な目標設定でないと意味がないからだ。
 つぎに、どのようにして短時間で、言葉にならないモヤモヤを目標化するか、の生産性が問われてくる。
 けっして明解なメソッドがあるとはいえないけれど、コーチングの本をいろいろ読んでみたり心理学の本に手を出して座礁したりという経験をしつつ、実践で試して右往左往しながら、とりあえず、まあこんなもんかというところにまでは、どうにか辿り着いたつもりになっている。
 この疑似(エア)マインドマップを、相手に紙に書いてもらうことはじつは稀で、オペレーターの口述をもとに僕が紙に書いてあげたり(というより、会話しながら勝手に僕がメモをとりだす、それに相手が興味を持ちはじめる…というナガレが最も理想的)、最終的には、そこにひとこと書き加えたり、印をつけたりしてもらうだけというのが多い。また単に、会話上ふたりの頭の中に形成するだけであることもある。
 「そこ」から一緒に外を眺めることを装いながら、「成る」へ動こうとする、というのか。
 この時、自分の担当する範囲で得意なもの、苦手なもの関わらず、挙げていってもらう。こちらの発言は、相手が話しやすい状況をつくることにほとんどを費やす。このとき、すべてが出来ているかどうかは一切不問。むしろマップにこの単元を書いたが、実はほとんど自分としては出来ていなくて「本来出来ていなければいけないもの」という位置にあるものをあぶり出すためにやる。

 こういったやり方がスキゾ分析の神髄的なものなのかといえば、恐らく全然違うのだろうけれど、山森さんが読み解いていくガタリ「変性スキゾ分析」と「生成スキゾ分析」が本来分けることが出来ないというのは、少なくとも、ああ確かにそういうものだろうな、と自然に腑に落ちることなのだ。

 スキゾ分析地図であろうと、出来損ないのマインドマップだろうと、単なる「お話し」であろうと、成ろうとして未だ果たせていないモチベーションを持たない人は少ないだろうし(そんな人に指導面談は必要ない、というより他者は必要ない)、成ろうとする像を言葉にしようとして、いまどうであるのかを土台にせず欲望だけを語るのは素っ頓狂すぎることに変わりはない。だからといって、図と地の関係は絶えず入れ替わり続けて良いし(無理矢理ひっくり返してみるのもひとつのやり方だ)、一回のコーチングの場で「である」と「成る(変わっていく)」は並存していて互いに潜み合っていると考えればいい。


 スキゾ分析の原則も山森さんの手でいくつか整理されているが非常にわかりやすい。

スキゾ分析においては、つけ加えても取り去ってもいけない。進行中の生成変化の傍らに居ながらぎりぎりのところで留まり、そしてできる限り控える、こういった態度が求められる。
---P.312 山森 裕毅 『スキゾ分析とリトルネロ』同書

分析する者もまた図表を形成する一要素なのである。
---P.314 山森 裕毅 『スキゾ分析とリトルネロ』同書

以上、まるでコーチングの原則を読んでいる気になるほど、当たり前のことである。

 ガタリのいう地図というのが、そのたびごとに生まれでる状況だということがわかったこと。これが自分にとっては一番大きい。

 ここでもうひとつ、トラウマ医療人類学の研究者・宮地尚子の「環状島」のイメージも思い出した。ガタリの「アジャンスマン」は要するに「その度ごと」の状況だから、その度ごとの状況にひとつずつの「環状島」のイメージを重ね合わせる手間は、絶えずメンバーをある方向に導かなくてはならない仕事柄、的外れではないと思ったりもした。

環状島=トラウマの地政学

環状島=トラウマの地政学

 また、「環状島」のマッピングは、常にヘルプする者が何処に位置するかを考えさせるから、その意味でも有効だと思う。 
 指導面談やコーチング、あるいは精神分析の場でのスキゾ分析が、地図作成が、その度ごとの実験である、ということはつまり、その度ごとの環状島である、と考えてみるチャンスを与えてくれる。

 *

 変形やせめぎ合いを読みこむ人としてのガタリ。山森さんが浮き彫りにしてくれるのはこのガタリ像だと思った。

 山森さんが論中指摘するとおり、ガタリが「機械」や「スキゾ」といった用語で説明しようとした事は、何も特殊で異常な状況に限定されるのではなく、いつでも・どこでも・誰にでも・どのような関係においても、起こりえる普通の状況をどのように捉えていくのか、それはその度ごとの状況を当たり前で動かしがたい静物画のようなものとしたままにする事の反対であって、まずは自分自身が変化してことで状況を変えていく、自分をそういう過程として考えていくには、どんな道具が、どんな通過成分(リトルネロ)があり、またこれから要るのか、という事なのだろう。


Joséphine et Félix Guattari (1986) by Gérard Courant - Couple #22
 *
 今、意味があるのは、ガタリのいったことが現在すぐに何かに「使えるか」ではないのかもしれない。
 ガタリは、絶対的な理想を建立してみせたのではなくて、ほとんどの普通の生活者が自覚無く試みていることを、自身の語彙で「機械状」に再構成してみせてくれただけなのかもしれない。
 ではなぜ、ガタリ没後20年経過した時代を生きている読者が、独自概念の密林に踏み込む必要があるだろうか?
 少しでも、昨日より先に進まなくてはならない人々のために、ガタリの思想が資するところはあるのだろうか?
 ドゥルーズが聞いたら一笑に付されそうな疑問かもしれないが、申し訳ないがここは結構、身銭を切っているいち読者には切実な問題だ。

 ある、と思う。
 そこで道に迷いながら、たとえば山森さんの明快な論旨に救われながら、どんな経験をしたフェリックス・ガタリがこう書かざるを得なかったのか。書き進めるうちにどのような手順を踏んで、なぜこの用語を選んだのか、なぜこの概念には説明がまったくないのか、それを知ることには、これまでのように概念を濫用するよりもきっと意味がある。
 穏当なことをとりあえず書いてお茶を濁しておきたいのではない。もし「哲学」というものに力があるのなら、ここに、その力が凝集しているのだと思うし、そこにアクセスするには、読者はやはり読みこむしかない。読んで悩んで仕事し生活するしかない。それはすぐに結果がでるスマートフォンではない。しかし、インナーマッスルのように効いてくるはずなのだ。

 *
 山森さんのテクストを読んで、いまようやくフェリックス・ガタリという思考の実践者に出会った、と思えるのです。

 ******
 4月のゴールデン・ウィーク直前に折ってしまった右足が大分癒えてきたこの時期に、このエントリーを仕上げることができたのも、何かの符牒だろうか。

Grow Fins: Rarities 1965-1982 [ENHANCED CD]

Grow Fins: Rarities 1965-1982 [ENHANCED CD]

これ、BGMでした。



salyu × salyu 「じぶんがいない」 "jibunngainai" studio live ver.
Performed by SalyuCorneliusYumiko Ohno、Hiroko Yamaguchi
Loop Stationを踏む、Salyu

Steve Lacy Four "MORNING JOY"


「Steve Lacy Four」というのは、Steve Potts(alto-&soprano-sax)、Jean Jaque Avenel(bass)、Oliver Jonson(drums)にもちろんSteve Lacy(soprano-sax)を加えた、後期レイシーのパーマネント・カルテット。
80年代、このカルテットでのアルバムは多数リリースされていて80年代から90年代はレイシーのコーナーにはCDが多数並んでいたけれど、最近は少なくとも大阪では見ることがない。本盤は、1986年パリでのライブ録音でHat Hutからリリースされている。ヤフオクでたまたま見つけて即効で落としてしまった。
フリージャズとして新しいところはまるでない(この言い方もおかしいですが)。どころか、モンク曲2曲にオリジナル4曲という、私的な独断で言えば、レイシーの良質な部分がもっとも出やすいと思われるセット・リスト。
常々感じてきたのは、「森と動物園」や「Moon」のようなフリーを超えるような「どフリー」な試みもレイシーだけれど(実は僕はレイシーの奥さんのヴォーカリゼーションが入っていると苦手)、たとえば一曲目モンク「エピストロフィー」での、誰もが親しんできたテーマ重奏後の、耳をつんざく厳しさとは対極にあるボンヤリとして諧謔にとっぷりと二度漬けに浸された節回しの、その滞留のなかに、レイシーのもっとも「フリー」な瞬間が聴き取れたりするのだ(その前のPottsのエネルギッシュなアルトとも好い対象関係になっている)(Jean Jaque Avenelの変質的にミニマルなベースラインも凄い)。
なんどもこのブログで書いてきたかもしれなくて恐縮なのだけれど、うまれてはじめて生で聴いたジャズが、僕の場合このSteve Lacy Fourの京都木屋町RAGでの演奏だった。そのときは熱に浮かされたようになって終演後テーブルで寛いでいたベースのJean Jaque Avenelにサインを求めて脱兎のように逃げ出した記憶しかない(終電を逃してからふねやカラフネヤで夜を明かした)。
今、そのときとほぼ同じ時期、同じメンバーによるこのライブ盤に耳を傾けていると、記憶が鮮やかに上書きされていく快感が止まらない。
当時このCDは冒頭書いたように普通にレコ屋に並んでいた。手に取らなかったのはお金が限られていたのでUSインディーロックのCDやレコードにまわしていたのと、ジャケットがあまりにアートっぽくて秘教的に感じて(Hat Hutのアルバムは軒並み同じように感じていた)「レイシーは好きだけれどもまさかここまではいけないなあ」と怖気づいていたのだと思う。
今夜、出会い直すことができてとても嬉しい。
このジャズ、この音楽は、確かに、僕のDNAに刷り込まれていると感じる。

シンセな夏:EBERHARD SCHOENERや DOLPHINS INTO THE FUTUREの映像

午前中、市民病院に入院している祖父の見舞いに行ってその後、梅田に出て新しくしたiPhoneの液晶シートやバックカバーを購入。それから、帰える前に、これまであまり覗いた事がなかったHEPFIVEと阪急の間にあるレコ屋さんに行ってみたら、上写真のレコードを見つけた。
ジャズの棚をぼんやりみてサイケ棚を見てその横が「ハードプログレ」棚という名になっていて、この棚はどうもいわゆるプログレから電子音楽、ヨーロッパのフリーインプロなんかをまとめて置いてあって、特にフリーインプロ系は見たことないブツが何枚も、やっぱり結構なお値段であったのでちゃんとした目利きをしておられるのだな(買わ(え)ないけど)と思ったりしていたら、このジャケット。
余りに妙なジャケットで、夢に見そうだったので買って帰ってしまいました。
EBERHARD SCHOENERという人の1977年の『Trans-Formation』という実験的なシンセ・ミュージック。
グレゴリアン・チャント風の歌唱とシンセのグニョーンとした音が「それ無理やろ」という感じで混じり合いもせずに併走する中、鋭利なギターのカッティングが追い上げてくる。なんとThe Policeのアンディ・サマーズ。1977年だからちょうど The Police結成の年のようだ。
ネットで調べてみたら、この人かなりクラシックの素養のある凄い音楽家みたいです。
Deep PurpleのJon Lord とロックとクラシックを融合させたような音楽を作ったり、結成するかしないかのThe Policeのメンバーと作品を作ったりしていた。このアルバムへのアンディ・サマーズの参加もその流れの一つである様子。
スティングとスチュアート・コープランドと共演しているのが下の映像。
Eberhard Schoener - Trans Am Rainbow Medley 1978

アルバムの雰囲気に近いのはこれ↓かもしれない。
EBERHARD SCHOENER-A.SUMMERS-STING - octogon (1977)


この夏はどうもシンセの音にやられています。
ヴァンゲリスブレードランナーのエンドクレジットにかかる曲を何かで久しぶりに聴いて、しみじみ「カッコいい」と思ってしまった。ステージでは即興演奏することが多かったとか、ギリシャ人ということはヤニス・クセナキスと同郷人か…時期も経緯も違うけれどギリシャを脱出してフランスに出たというのは一緒なんだな…とか改めて思ってみたりして、

それで、名作これを今頃聴いてみたり、

Opera Sauvage

Opera Sauvage

タンジェリン・ドリームの、
ALPHA CENTAURI (IMPORT)

ALPHA CENTAURI (IMPORT)

Atem  Tangerine Dream

Atem Tangerine Dream

のダブルアルバムのボロボロなアナログを800円で見つけて聴いてみたり。タンジェリンのこのアルバムは、10年くらい前にCDで聴いたと思うのだけれど、LPで聴くと印象が全然違った。なんというか、生々しく、変。


暑さも湿気が無くなってきてちょっと過ごしやすくなってきていますが、ぼんやりYouTube見ていて、1年ぶりくらいに見てやっぱりいいなと思ったのが、DOLPHINS INTO THE FUTUREのPicnic Sessionsでの3つの映像でした。この透明なダルダル感。
CA2M 3 JUNIO 2010 - Picnic Sessions. Clip DOLPHINS INTO THE FUTURE

dolphins into the future_Picnic Session CA2M

DOLPHINS INTO THE FUTUREはいくつかカセットやLPを聴いたけれども、この映像が一番良いなあ。


ちょっと変わったのも見つけておもしろかった。Felix Kubinが数階建ての建物を丸ごとスタジオにして各部屋で一斉に演奏している。
Felix Kubin & ensemble Intégrales -- Echohaus

普通、音楽の生演奏というのは、楽器同士が出すそれぞれの音はもちろん、それらが一つの空間の中で混ざり合ってモアレみたいになる様を楽しむものだったりすると思うのだが、Kubinはその逆をいっている。しかし、面白い。

最後はこれを見て寝よっと。
James Taylor with Julie Fowlis & Karen Matheson & James Graham 「Belfast to Boston 」

ブッチャー2夜と塩屋の手風琴

英国即興の開拓者ジョン・ブッチャーJohn Butcher(テナー&ソプラノ・サックス)の来日ツアー。
前日の旧グッゲンハイム邸での鈴木昭男とのデュオは行けなかったけれども、京都・大阪の二日に行くことができた。
ジョン・ブッチャーの演奏をはじめて聴いたのは最近だったと思ってブログをたどると、2010年の9月に中崎町のコモンカフェで聴いていたのだった。
(晒してみるとこんなです)http://d.hatena.ne.jp/nomrakenta/20100921
そのときの自分の感想を読んでみると、鳥のような音色だとか書いていて自分で嫌になる(Steve Lacyにに対する表現とおんなじ)。ジョン・ブッチャーの音を表現できるような語彙は相変わらずないのだけれど、騒がず・浮かれず、もう少し聴き耳をたてることが出来るようになったのかもしれない。


5日(月)John Butcher(ss,ts), 河合拓始(p), 高岡大祐(tuba) @京都パーカーハウスロール
この日午後3時から20分間、京都市内をゲリラ豪雨が襲った。
四条烏丸駅から五条方面に10分ほど歩くと会場のバー、パーカーハウスロールがあった。老舗らしいのだけれど初めて来た。
デュオ即興×3に、トリオ即興で〆という構成。最初は高岡×河合デュオでしたが、この組み合わせからして素晴らしい演奏だった。ジョン・ブッチャーが演奏しはじめてからは、その音に驚くばかり。最後のトリオ演奏では、河合さんも鍵盤ハーモニカにスイッチし、鍵盤ハーモニカ、チューバ、サックスの音が混じり合って目を閉じればもはやどの楽器からと聴き分ける事ができないような音の霧がたゆたうのを聴いていた。
よくぞこの三人を、というこの日の面子。音波舎の中沢さんによる差配だろうか。
この夜、自分にとって得難い体験だったのは、奏者による演奏だけでなく、Bright Momentsのドラマー橋本さんの隣の席で聴けたことだった。橋本さんのジョン・ブッチャーの演奏に対する向き合い方、コメントが自分にはとても興味深かった。特に、ジョン・ブッチャーの音色の幅広さと、不意に起こった音を起点にどこまでも展開できる引出の多さ、など。



7日(水)John Butcher(ss,ts)ソロ@島之内教会
残念だけれど、この日のソロは行けないだろうなと思っていたら、会議が延期になったのでJR難波の職場から歩いて心斎橋を横切り駆けつけました。
会場は教会。以前、灰野敬二がライブをしたことがあったそうですがその時は行けなかった(他にもライブをいろいろやっているそう)。
会場に入ると、次第に大阪のライブ会場でお出会いするあのひとこのひとの顔が…。大阪のある種の音楽好きが一斉に集結しているのではないかと思いました。
1部はテナー。
音の鳴りを確かめるようにして、いくぶんオーソドックスな短めのフレーズを吹いてから、あっという間に高い集中力に登りつめて、サックスからの音が少なくとも二つ(あるいは3つめの音までも)聴こえてくる倍音の高原(プラトー)が途切れることなく続く。耳から身体がなくなっていくようにジョン・ブッチャーのソロに吸い込まれていく。客席の集中力もどんどん高まっていくのを感じた。
ジョン・ブッチャーのソロを教会の広い空間の中で聴くことができて、あらためてその「息」のキレの凄みと音の厚み(ソプラノサックスでさえ)、豊富な倍音の引出しに耳を奪われてしまった。サックスは、金管楽器は吹く人次第でここまでのことができるのか、という単純な驚きの濃厚さをかみしめてみる。
休憩挟んで2部はソプラノ。管を空気が通過してかすれるような音からまでもクリアーな倍音が立ち上って自在に動き回る。
一緒に観ていたI田さん、S藤さんらと、心斎橋のおでん屋で一杯飲み。S藤さんは勝尾寺のお坊さんなので一緒に千里中央からタクシー相乗りで帰ることになった。



8日(木)灰野敬二ソロ 海辺の手風琴@塩屋旧グッゲンハイム邸
こちらも予約しておいた、絶対聴きたかった催し。日曜の旧グッゲンハイム邸でのジョン・ブッチャー×鈴木昭男デュオは来れなかったが…(二回目)。
会社を定時であがって梅田に出て塩屋に向かうも、直前にあった地震速報のせいでJRは全線軒並み20分の遅れだった。なんとか塩屋に降り立つと海岸沿いの道は封鎖されていて山陽線側から迂回せよとの事…。それにしても旧グ邸は久しぶり。

灰野さんのハーディーガーディーのCDが好きでここ数年よく聴いていた。ハーディーガーディやトロンバ・マリーナといった楽器には、三味線や琵琶のような「サワリ」を出すための機構がある。ハーディガーディのそれは形状からいって「シヤン(犬)」といわれているそうだが、元は、トロンバ・マリーナからきた「うなり駒」という片足浮動の駒で、これが弦の振動で震えてボディーを細かく叩く、そこは変わらない。要するにビビりの音だ。それは西洋に非西洋が紛れ込んでいるように思うだけではなくて、自分にとっては自然な音のように聴こえる。
しかし、もちろん、灰野敬二のハーディガーディは中世音楽を好む人のそれではなくて、独自の音世界。
前半はわりと他でも聴きなれたような旋法を駆使して演奏しておられるように自分には思えたのだけれど、中盤からクランク手回しのリズムが明らかに独特になり、これでドローン弦のリズムもちょっと聴いたことがないような世界を構築しはじめて、旋律が舞い飛びはじめる。今夜はエフェクトなどは一切使っておられなかった(と思います)のだけれど、ファズを思いっきり踏むとのと同じような音の瞬間がハーディガーディでも何度もあった。
最後のハープ独奏がハーディガーディの音響で熱くなった空気を冷ますように響いていた。